世界を救う読書

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天才ドラマー"村上ポンタ秀一"死す。天才が生きられる社会の条件とは?

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今週、音楽業界を揺るがす報せが飛び込んで来た。

日本の音楽シーンの立役者の一人と言っても過言ではないドラマー、村上ポンタ秀一氏が逝去された。

私は音楽業界に身を置く立場だが、基本的にこのブログでは音楽業界のことは書かないことにしている。理由は身バレするのが恐いからだ(笑)。

下手に口が滑って身バレすると仕事ができなくなる可能性がある。

だが、今回は特別だ。

なぜか?

村上ポンタ秀一の訃報に接し、その非凡な存在について考えたことで、「このような”天才”は日本では二度と生まれないのではないか」という危惧を感じたから。

今回は村上氏が人となりを紹介しつつ、「天才」が生きていく社会的条件について考えてみたい。

 

 

ドラマー村上ポンタ秀一 

村上ポンタ秀一。通称ポンタ。

尊敬の念を込めてあえて言おう。

ふざけた名前である(笑)。

恐らく音楽に特に詳しくない一般の方は、村上氏のことなどほとんど知らないだろう。

しかし、日本に住んでいて彼のドラムを聴いたことがない人は恐らく一人もいないはずだ。

 

彼が演奏した曲が、一日のうちに必ず一曲は日本のどこかでかかっていると言っても良いほどとてつもない曲に参加しているからだ。

有名どころだけ挙げても、キャンディーズ山下達郎坂本龍一福山雅治ゴールデンボンバー、あるいは宇宙戦艦ヤマト(宇宙戦艦ヤマトのテーマ)……無理だ。とても書ききれない・・・。

 

彼は昭和〜平成を代表する数多くのアーティストのバックで演奏を務め、その参加曲は1万4千曲を超える。これも数えることができる範囲であるため、恐らく実際には2万を優に超えるだろう。当然音楽業界でもその影響力は絶大だ。

音楽業界で彼のことを知らない人は一人もいないし、特にドラム業界においては神格化された存在だと言っていい。

ドラム界の神。

生きる伝説。

それが村上ポンタ秀一である。

人柄はめちゃくちゃ。音楽は神。

私は一度村上氏に会ったことがある。

20年ほど前の学生時代だ。

とある地方のドラムクリニック (今で言うセミナーみたいなもの) に講師として参加されていたのだが、開口一番

「そもそもこんなクリニックに来てる奴は駄目なんだよ」

という身も蓋もない言葉を言い放ったのが衝撃だった。

今だったら大炎上、クレームの嵐。業界から叩き出されるだろう。

 

正直なところ、人格としては相当無茶苦茶な人物だったことは間違いない。

現在だったら間違いなく業界から追放されていたであろう数々の破天荒な逸話を残している。興味がある人はググって欲しい。いくらでも出てくるだろう。

それらがどこまで本当かは分からないが、見た瞬間に「この人ならやりそうだ・・・」と思わせる凄みがあった。

「確実にカタギの人間じゃない」。

直感的にそう思わせる鋭さがあった。

 

ただ、もっと凄かったのはそのプレイだ。

上手い!のではない。”凄い”のだ。

いや、もっと言えば”凄まじい”プレイだった。

昨今は日本人でも本当に上手いドラマーは数多くいる。しかし、彼のような凄まじいプレイをする人間を私は他に知らない。

テクニックではなく魂でプレイしているような。そして、その魂で聴く人の魂をぶん殴るような圧倒的な存在感があった。

その上、音がとんでもなく美しい。

なぜあんなメチャクチャな人物からこんなに綺麗な、透き通った音が生まれるのか全く理解できないほど、一度聴いたら忘れることができない美しい音を紡ぎ出す人だった。

 

当時、若かった私は

「素晴らしい音楽を作れる人は人格的にも素晴らしい人に違いない」

と無邪気に信じていた。

だから、こんなメチャクチャな人間からなぜこんな素晴らしい音楽が生まれてくるのか全く理解できなかった。

 

今なら少しだけその理由が分かる。

人格が素晴らしいから素晴らしい音楽を作れるのではない。

音楽以外のすべてを切り捨て、すべてを捧げられるほど音楽を愛しているからこそ素晴らしい音楽が生み出せるのである。

そこに人格などというちっぽけな器は全く関係ないのだ。

それは過去の優れた芸術家が体現している。

これは音楽だけではなく、あらゆる芸術に当てはまる。

作品と人間性は正比例しない。むしろほとんどの場合が反比例するのではないか。

 

そして、これこそが私が「これからの日本に、このような天才は二度と現れないのではないか」と危惧している理由だ。

いわゆる”多様性”への疑問 

昨今は「個性が大事だ」「多様性が重要」「ダイバーシティが・・・」などというのが当たり前になっている。少なくとも”それが正しい”ことだと言われている。

しかし、正直に言えば私はかなり胡散臭いものを感じている。

なぜならそういうことを言う人間に限って「多様性なんか認めない。多様性なんかクソ喰らえ!」という多様性は認めないからである。

 

多様な価値観や生き方を受け入れることは大事だ。そんなことは当たり前である。

しかし、それを「多様性を受け入れることは、人類普遍の真理なのだから従え。従わないやつは人間のクズだ。」と押し付けるのは間違っていると思う。

本当に多様性を認めるならば、「多様性を認めない」という考え方にさえも正面から向き合い、議論を重ねなければいけないはずだ。

 

翻って現在の日本はどうだろうか。

表では誰もが多様性が大事だと言う。個性が大事だ、自由が大事だ、と。

しかし、その一方で現下のコロナ禍では”マスクをしない自由”は認められない。

それどころか

”マスクが本当に効果があるのか?”

”緊急事態宣言は本当に効果があるのか?”

と言った疑問を呈することすら憚られる空気が確実に存在するではないか。

 

もし、今の日本に村上ポンタ秀一が生まれ落ちたらどうなるだろう。

マスクをして、社会的距離を保って、ルールを守る。それができなければ業界から爪弾きにされる。

そんな息の詰まる環境から"あの美しいポンタのサウンド"が果たして生まれるだろうか?

天才は迷惑だ

昨今は天才のことを有り難がる風潮が強い。

赤ん坊は生まれた時から誰もが天才、などという輩がいる始末だ。

しかし、実際には天才ほどはた迷惑な存在はいない。

普通私たちが天才というとき、それは芸術や技術の分野で優れた才能を発揮する人のことを指す。

しかし、真の天才とは私たちが生きる社会のパラダイムを根底から揺るがすような、地殻変動を起こすほどの独創性を持つ才能のことだ。

 

たとえば日本が産んだ天才芸術家である岡本太郎

彼もその功績が世界で認められたからこそ後年社会で受け入れられた。

しかし、あの人が自分の身内だったらこれ以上迷惑なことはないだろう。

だがその岡本太郎にしか表現できない何かがあり、それが世界を変えた。そして彼の作品や言葉は今でも多くの影響を与え続けている。

これが天才がなのだ。「天が与えた才能=天才」なのである。

凡人にとって天才ほど迷惑な存在はいない。

だが、そのような天才がいるからこそ、世界は実り豊かなものになり美しく輝くのだ。

 J.S.ミルの「天才を生む社会条件」

19世紀イギリスで活躍したジョン・スチュアート・ミルという哲学者、経済学者がいる。

「最大多数の最大幸福」という言葉で知られる功利主義者として記憶にある人もいるだろう。

かれがその著書「自由論」の中で”天才”について語っている箇所がある。

「天才はごく少数しかおらず、そして、常に少数のままだろう。しかし、天才が現れるためには、天才が育つ土壌を保持しておかなければならない。天才は、自由という雰囲気の中でしか自由に呼吸できないのだ。」

天才は天才として生まれる。

しかし、天才が天才として生きていくらためには、それを受け入れる懐の深い社会が必要だ。

どれだけ巨大な才能が生まれたとしても、社会がそれを受け入れることができなければまともに生きていくことはできない。

現代の日本は果たしてその懐の深さを持っているだろうか・・・。

 

私は村上ポンタ秀一氏自体は、はっきり言って嫌いだった。インタビューなどを見ても気に食わない発言ばかりだ。

だがその音楽は本当に素晴らしかった。

彼がいたからこそ生まれた音楽や感動が数多くあるのは間違いない。

彼の偉大な功績を偲ぶとともに安らかな眠りを祈りたい。

 

今回も最後まで長文をお読み頂きありがとうございます😊

"人は成長する"という物語を捨て去ることができますか?斎藤幸平著「人新生の資本論」

 私は基本的に流行り物に飛びつかないようにしています。本でも同じです。

流行っている物がすなわち良い物とは限らないと思いますし、「流行ってるから読んでみようって恥ずかしくない?」という、ある意味”中二病”的な心理も働いていることは否定できません(笑)。

そんな私が流行りに乗っかって読んだ本がこちらです。

斎藤幸平 著「人新生の資本論」。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

・・・遅っっっ!

遅いよ!

今頃読んでるの??

という鋭いツッコミが聞こえてきそうです。

書店でもベストセラーとして並べられ、メディアでもかなり取り上げられており、ご存知の方は多い本書。そのせいかネット上でも多くの書評が展開されているのが散見されます。

ただ、率直に言ってどれも似たような書評ばかりで、本書の最大の魅力に迫っているものがほとんどないと感じています。

私はこの本は本当に面白いし、読む価値が高いと思います。だからこそ、よくある要約文を一読して分かった気になっているのは非常にもったいない。

本書がこれから先も社会において重要な位置を占めるであろう魅力をご紹介したいと思います。

この本の”表のテーマ”と”裏のテーマ”

この本のテーマは二つある。

ひとつは「気候変動が激しさを増す中、私たち人類はどのような社会を目指すべきか」。

そしてもう一つは「悪名高いマルクス主義に新たな意義を与えること」。

この2点だ。

この本の書評を見ると、ほとんどが一つめの気候変動への対策に関してについてのみ語られている。

しかし、私は実は二つめのマルクス主義の問い直しこそが著者がもっとも表現したかったことではないかと思う。

気候変動の原因は資本主義にある

ではまずは、”表のテーマ”である気候変動と私たちの社会に関する部分から見ていこう。

この点に関する本書の論旨は明快だ。

それは「現在の資本主義システムのもとでは、どのような努力をしようとも気候変動を食い止めることはできない。気候変動から私たちの未来を守るためには、”成長”を基盤とした資本主義を乗り越え、脱成長型の新しい社会モデルを作り上げなければならない」というものだ。

 

たとえば昨今話題となっている

「SDGs(持続可能な開発目標)」

グリーン・ニューディール(技術革新による環境保護と経済成長の両立)」

という言葉を聞いたことがある人も多いだろう。

だが、そのどれもが経済成長を前提とした資本主義的発想に基づくものである。

資本主義とは、あらゆる物を商品として取り込み、利益を最大化する活動のことだ。そこでは、人が生産したモノだけではなく、社会インフラ、水や食料、さらに生活の安全を守る活動まで、すべてが「商品」となる。

だからこそ、資本主義は歴史的に自然の略奪、人間の搾取、巨大な不平等と欠乏を生み出してきた。

地球温暖化問題とはその当然の帰結である。

だからこそ地球温暖化という未曽有の気候変動から生き残るためには、その資本主義を乗り越えなければ根本的解決にならない。

では、どのように資本主義を乗り越えるのか?

その先にあるパラダイムとは何か?

そのヒントとなるのが資本論の著者として有名なカール・マルクスの思想にあるという。

そして、ここからマルクスの研究者として名を馳せる著者の本領が発揮される。

”いわゆるマルクス思想”の限界

マルクスといえば、一般的に共産主義という思想を編み出した思想家として知られる。

共産主義をものすごくザックリ説明すると、次のようになる。

すなわち、資本主義社会では一部の金持ちが富を独占する。そこでは労働者は虐げられ、経済的、社会的にあらゆる格差が拡大する。

それを打破するためには、労働者が団結し、資本家に対して革命を起こさなければならない。

それによって労働者自身が治める平等な社会を作り上げられる。

このように社会が進歩していくのが歴史の必然であるのだ!

 

という思想だ。

これが20世紀に世界中で支持され、資本主義を打ち倒す共産主義革命を引き起こした。

 

しかし、このようなマルクス思想は現在多くの研究者によって否定されつつあるという。

著者によれば、確かにマルクスは若い頃この”いわゆるマルクス思想”に深く傾倒していた。しかし、主著「資本論」以降、このような「労働者革命による平等社会の構築」という物語に限界を感じていた。

仮に一時的に労働者が資本家を打倒し、社会の資産を平等に分け合ったとしよう。

だが、「投資によって物の生産と利潤の拡大を行う」という現在の経済モデルのままでは、結局労働者が新たな資本家になるだけで世界は変わらない。

つまり、今の支配者が新しい支配者に変わるだけだというのだ。

その問題の本質を晩年のマルクスははっきりと認識していた。

晩年のマルクスが志向した”協同体社会”という思想

では、晩年のマルクスはどのような社会構想を描いていたのか?

 

それが自然環境やエネルギー、食糧など生活に不可欠な資産を市民が自分たちで共同管理する”協同体社会”だ。

もともと資本主義社会が利潤を生み出すことができるのは、自然環境やエネルギーなどの人類共通の資産を資本家が独占し、希少価値を高めることに由来している。

 

たとえば「水」という商品を考えてみよう。

水が商品として成立するには、その水が希少価値を持っていなければならない。

誰もが自由に、好きな時に、きれいな水を飲むことができるのであれば商売は成り立たない。

逆に言えば、「水にアクセスできる権利」が制限され、一部の人間が独占できるからこそ、その水に商品価値が生まれるのである。

そして、商品価値が生まれれば、必ずその価値を高めようとする活動が生じる。それが資本主義だ。

そうであれば資本主義を乗り越えるには、この水へのアクセス権を広くみんなで共有すれば良い。共有資産である水を市民で管理・運営し、誰でも使用できるようにする。これがマルクスが志向した「協同体社会」である。

”独占による利益の発生”を防ぐことで、資本主義による社会の不平等を乗り越えることができる。

脱成長という新たなパラダイムに向けた課題

ただ、一つ問題がある。

それはこの協同体社会では基本的に”経済成長が見込めない”という点だ。

経済が成長するためには投資が必要である。投資によって生産効率を上げることで利潤を増やすのだから当然だ。

しかし、共同管理によって利潤の増加を求めないのであれば、利潤を増やすための投資は極めて小規模になるだろう。

社会インフラや自然環境の整備など、必要最低限の投資に留まることになる。

そうすれば”経済成長がゼロ”とまではいかないまでも、現在のような経済成長は見込めなくなってしまう

しかし、この事実を受け入れなければ、この協同体社会による資本主義の超克は不可能だ。

著者はこの問題点を指摘した上で、「だが、やらなければならない」と言う。そうでなければ気候変動によって人類が滅びてしまうからだ。

これは経済成長を否定しようというのではない。

経済成長を追い求めるという現在の枠組みを超えて、”脱成長”という次の新しいパラダイムを構築しなければ人類に未来はない。

これが著者の結論である。 

本書が投げかける重要な問題

我々は確かに資本主義的経済モデルのもたらす大きな問題に直面している。

この本のテーマでもある地球温暖化問題もその一つだろう。

それを脱成長コミュニズムという新しいモデルによって乗り越えようとする著者の提案は興味深い。

しかし、残念ながら私はここに大きな違和感を感じている。

それは「脱成長によって資本主義を乗り越える」という考え方自体がすでに資本主義と同じ価値観に基づいているという点だ。

資本主義といえばお金儲けのことだと思っている人も多いかもしれない。

そうではない。

資本主義とは「資本(お金や労力や技術)を投資して、より大きな利潤を生み出そうとする活動」のことだ。

その根幹には「人は成長していく」という進歩主義的価値観がある。

これは当然だ。どれだけ投資しても生産効率が上がらないのであれば、投資の意味がない。

それは経済活動に限った話ではない。私たち自身もまた成長できると信じているから、自己投資を行うのである。

つまり、現代社会はすべて”人は困難を乗り越え、成長し、進歩する”という進歩主義を前提としているということだ。

 

さらに皮肉なことに、困難は乗り越えることができるのならば、”より早く”、”より効率的に”困難を乗り越える道を探すのが人間の性だ。

「この困難な状況をもっと深く、ゆっくり味わいたい。もっとつらい思いをしたい。」という人はまれだろう。

資本主義がここまで発展してきた原因もここにある。

その根幹にある「コストを最小化し、効率的に、早く、利益を最大化する」という考え方は、私たち自身の進歩主義的信念に合致しているのだ。

これこそが資本主義の超克を阻む最大の壁である。

この点を著者は見落としているのではないか。

 

著者が言うように、資本主義は”成長”を前提とした社会パラダイムである。

そうであるなら、我々が真に資本主義を超克するためには「困難は乗り越えることができない。」「人は成長しない。」という事実を受け入れる強さを持つしかないのではないか。

それは生き方や哲学としては非常に潔く、美しい。東洋的な悟りの境地とも言える。

果たしてそのような生き方や社会を現代人が受け入れることができるだろうか。

 

私は本書はある意味で非常に大きなテーマを投げかけていると思う。

それは「"人は成長するという物語"から逃れられるのか」というテーマだ。

これは私たちの生き方や世界の捉え方すら揺るがしかねない、とてつもなく大きな問題である。

人が成長するという物語が成立するためには、未来という概念が存在しなければならない。

未来がなければ成長などないのだから当然だ。

しかし、実は歴史上の大部分で人類は現在のような「未来」という概念を持っていなかった。近代社会以前は時代の流れが非常に緩やかだったため、"未だ来ない時間"を思う必要などなかったのだ。

現代人は、過去の近代以前の人々が考えもしなかった、過去から現在へ流れ、未来へ繋がっていくという時間の流れを前提とした世界に生きている。

現在は未来へつながっていく一本の道でつながっているという神話の中で私達は生きている。

その神話を信じているからこそ、現代の私たちは今直面している苦しみを耐えることができるのである。

著者の言うような脱成長型社会とは、そのような神話を根本から揺るがそうという試みに他ならないのだが、著者はそこまで理解した上で主張しているのだろうか?

 

これが現実的に可能なことかどうかは、ここで述べるつもりはない。あまりにも巨大過ぎるテーマであり、結論が出せるような人間は誰一人いないだろう。

しかし、これこそ我々が正面から向き合うべき課題ではないかと思う。

現代人は”日々成長しなければならない”という無言の圧力に苦しめられている。

その原因のひとつが我々を支配する成長神話だ。

この成長神話が本当に私たちを幸せにする神話なのか。

それとも資本主義が私達から利潤を搾り取ろうとするために作られた都合のよい物語なのか。

それを考える上でも非常に参考になる書籍であるのは間違いないだろう。

 

というわけで今回はこちらの本のご紹介でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

"ニュースを絶つ力"が人生を豊かにする。ロルフ・ドベリ著「News Diet」

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今回ご紹介するのは「Think Clearly」「Think Smart」などの著作でベストセラーとなったロフル・ドベリ著「News Diet」(ニュース・ダイエット) 。

シリーズ36万部突破の最新作ということで、すでに世間で話題になっている著書。スイスの知の巨人が提言する「ニュースフリー生活」のススメである。

ちなみにタイトルは「ニュース・ダイエット」。ダイエットの方法を解説する「ダイエット・ニュース」ではないので、そこはご注意を(笑)。

News Diet

News Diet

 

 

著者紹介

著者であるロルフ・ドベリは作家であり、実業家。1966年、スイス生まれ。

スイス航空の子会社数社でCEO、CFOを歴任。

科学、芸術、経済における指導的立場にある人々のためのコミュニティー「WORLD.MINDS (ワールド・マインズ)」を創設し、理事を務める。

35歳から執筆活動をはじめ、世界の多数の国での雑誌や新聞に寄稿。著書は40以上の言語に翻訳出版され、累計発行部数は300万部を超えるベストセラー作家。

著書に

「Think Clearly 最新学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考方法」

「Think Smart 間違った思い込みを避けて、賢く生き抜くための思考法」

などがある。

作家であり、実業家でもあるという風変わりな肩書を持つ著者だが、彼の著作の面白い点は人生という困難な道をよりよく生きるための処方箋を、とても簡潔な言葉でわかりやすく表現してくれるところだ。

しかも、そこには恩着せがましい押し付けや高圧的な態度は微塵もない。

まるで著者と会話する私たち読者との間に”コロンッ”と石ころでも転がすように気軽に指し示してくれる。

「僕は君の人生をよくするアイデアを提示した。それをどう扱おうが君の自由だよ。」と言って、微笑みかけているかのような優しさを感じる独特の文体が魅力だ。

News Dietとはどんな本か?

さて、そんな著者が今回著した「News Diet」とはどんな本なのか。その内容はこの本の副題に凝縮されている。

「Stop Reading the News. A Manifesto for a Happier, Calmer and Wiser Life.」だ。

日本語で言えば「ニュースを読むのはもう止めよう。より幸せで、穏やかで、そして賢い人生を送るための提案」といったところだろうか。

そう、この本はニュースの過剰摂取をやめることで、より良い人生を送るためのアイデアを提案する内容なのだ。

ニュースはあなたの人生にとって重要ではない

私たちの生活はニュースと共に始まり、ニュースと共に終わると言っても過言ではない。

特にスマホ生活が当たり前となった現代ではなおさらだ。

朝起きて朝食を食べながらスマホでニュースをチェックし、夜寝る前も今日の出来事をスマホでチェックする。そんな生活を送っている人がいかに多いだろうか。

ニュースは確かに世界で起こったさまざまな出来事を教えてくれる。一つでも多くのニュースを知っている人は、知らない人よりも優れた人のように見える。

ビジネスマンであればニュースを一つでも多く知っていることが、成功につながるとさえ思うだろう。

だが、本当にそうだろうか?

 

著者は言う。

「もしニュースを消費することが本当に出世につながるなら、所得ピラミッドのトップはニュースジャーナリストたちで占められているはずだ。だが現実はそうではない。その逆だ。」

と。

ニュースを多く知っていることは必ずしも成功に必要だとは限らない。ましてや人を幸せにすることはないのだ。むしろニュースを追いかけることは私たちの生活に悪い影響を与えると著者は言っている。

制限するべきニュースの”消費”

ニュースが与える悪影響を紹介する前に、この本でたびたび出てくる「ニュースを消費する」という言葉の意味について少し説明しておきたい。

これはとても重要なキーワードだ。

 

著者は大量のニュースを消費することの弊害を紹介しているが、この”消費”とはニュースを知るためにニュースを追いかけるような行為のことを指している。

つまり、アルコール中毒者が瓶が空になっただけで不安になり、飲みたいわけでもないのに空になった瓶にアルコールを注ぐような行為を指している。

アルコールを飲むこと自体が悪いのではない。アルコールを過剰に摂取すること、そしてアルコールが無いということ自体にすら不安を覚えることが問題なのだ。

 

実際、著者も「全くニュースに接するな」とまでは主張していない。

世界で起きている出来事に関心を払い、思考を巡らせ、現実的な行動をとることは、むしろ積極的に行うべきである。

著者が薦めるニュースのダイエットとは、アルコール中毒者がアルコールを浴びるような”ニュースの過剰消費”からの決別のことだ。

ニュースが与える悪影響

この本ではニュースを大量に”消費”することの悪影響がいくつも紹介されている。

その中でも面白いのが

・集中力の低下

・偏向性の強化

という点だ。

 

ニュースが与える悪影響① 集中力の低下

物事を考えるには集中力が必要であることは言うまでもない。

しかし、ニュースの消費はこの集中力を低下させる。

なぜなら、集中するためには誰にも邪魔されない時間が必要だからだ。

これについてはアンデシュ・ハンセンの著作「スマホ脳」にも同様の指摘がある。

基本的に人間は一つのことしか集中して作業ができない。複数の作業を同時にこなしているように見えても実際には作業の間を行ったり来たりしているだけなのだ。

集中する対象を変えるだけなら、確かにコンマ一秒程度しかかからない。だが問題は、能がさっきまでの作業の方に残っていることだ。

脳には切り替え時間が必要で、さっきまでやっていた作業に残っている状態を専門用語で注意残余と呼ぶ。ほんの数秒メールに費やしただけでも、犠牲になるのは数秒以上だ。

集中する先を切り替えた後、再び元の作業に100%集中できるまでには何分も時間がかかるという。

(スマホ脳。P89) 

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

 したがって、ニュースにふれると集中力は必然的に情報の波に押し流されて消え失せてしまう。その結果、ニュースによって集中力が衰え、思考力が低下するのである。

 

ニュースが与える悪影響② 偏向性の強化

もうひとつの悪影響の一つが、思考の偏向性・・・つまり思い込みが強まることである。

一般的にはニュースを知れば多くの情報を得ることができるため、多面的な視野で物事が見られるようになると思われている。しかし、実際はその逆である。

本書では、オレゴン大学でポール・スロヴィックが行った「競馬予想」に関する面白い実験が紹介されている。

この実験は競馬予想者に与える馬についての情報を少しずつ増やしていき、それが自分の予想への”自信の強さ”にどう影響を与えるのかを調べたものだ。

実際にはその情報は”予想の的中率”にはなんの影響も与えなかったのだが、参加者の「自信」には大きな影響を与えた。

与えられた情報が多いほど、参加者たちの自信は強くなっていったのだ。

普通、何かを予想するには用心深さや疑いが必要だ。しかし、情報を得るごとに被験者は情報の洪水に洗い流され、「慎重な判断」が「絶対的な確信」に変異してしまった。

つまり、人は得られた情報が多いほど謙虚さや用心深さをなくし、自信過剰になっていくのである。

自信過剰は自分の意見への絶対信仰を生み、他者の意見への偏狭さを生む。そして、この他者への偏狭さは多面的な物事の見かたを衰えさせ、決断の質への低下につながるのである。

ニュースを見るよりもやるべきこと

では、ニュースを全て絶てば物事はすべてうまく行き、よりよい生活が約束されるのだろうか?

残念ながらそれも違う。

人は社会的な生き物であり、社会と分離して生きていくことはできない。

しかし、ニュースから距離を置くことと、社会と隔絶することは二者択一ではない。

社会の動きに関心を持つことは、社会に生きる私たちにとって重要であることは間違いない。

ただ、関心を持つというのはニュースを消費することではなく、本来「行動を起こすこと」である、と著者は言う。

「メディアの消費を通して世界の出来事に関心を持つ」など、これ以上の自己欺瞞があるだろうか?

「関心を持つ」というのは、本来、何らかの行動を起こすことを意味するものだ。瓦礫の下からはいでてくる地震の被災者の様子を夜のニュースで眺めながら憐れみに浸る行為は、なんの助けにもならないだけでなく、嫌悪すら催させる。

地震の被災者や戦争難民や飢えに苦しむ人達の運命が本当に気にかかるなら、お金を寄付しよう。注意を向けたり、労働力を提供したり、祈ったりすることよりも、お金の方がずっと役に立つ。(本書P182)

私は本書の「News Diet」という考え方において最も大事な指摘は、この点にあるのではないかと思う。

 

大切なことは日々飛び込んでくるニュースを消費することではない。

本当に社会に関心を持っているのであれば、ニュースを消費するのではなく行動を起こさなくてはならない。

そして、その具体的な行動とは、個人の能力や資質、あるいは環境によって異なる。

そうであるならば、私たちが社会に関心を持つために本当に必要なのは自分の能力や資質、いわば”自分にできること” (著者はこの範囲を”能力の輪”と呼ぶ) を見極め、何をすべきかを自分自身に深く問い直すことではないだろうか。

 

日々私たちの生活を押し流す数多くのニュース。

ニュースを知ることが社会人としての常識だという程に当たり前になっているニュースの”消費”。

しかし、それは本当に私たちを幸せにし、社会を幸せにするのだろうか。

私たちがよりよく生きるためのニュースとの付き合い方を考え直す上で、非常に参考になる書籍である。

 

という訳で、今回ご紹介した本はこちら。

ロフル・ドベリ著「News Diet」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

News Diet

News Diet

 

 

米中対立の狭間で日本に何ができるのかを問う。橋爪大三郎著「中国vs米国」。

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昨年末に飛び込んで来たとあるニュースが世界を騒がせた。

中国のGDP国内総生産の規模が2028年にはアメリカを上回って世界1位になるという予測をイギリスの民間の調査機関を発表したのだ。

もともと同機関は中国が米国を上回る時期を2023年と予測していたが、新型コロナの騒動により5年早まる計算だ。

さらに、別の機関の調査では2050年には中国のGDPは米国の2.7倍になると試算している。

これらは民間の調査機関のものだが、当然米国自身も同様のシミュレーションをしていることは想像に難くない。

トランプ元大統領以来、米中対立が先鋭化してきたのは周知の事実だ。

しかし、トランプ氏個人の資質によるものではなく、覇権国の地位を守ろうとする米国という国家戦略に基づくものであり、実際バイデン新大統領になってからも対中国政策は厳しさを増している。

 

地理的に米国と中国の間に立たされている日本も、当然この状況とは無関係ではいられない。

双方ともに私たちの生活レベルにまで非常に強い影響力を持っており、まさにこの二国の対立は国民生活に直結する問題だ。

では、私たちはその2大国に動向に対してどれだけの関心と知識を持っているだろうか?

そもそも中国共産党とは何か?

中国は資本主義なのか?

なぜ中国がここまで巨大な国になったのか?

米国と中国はなぜ対立するのか?

「何となくのイメージはある。でも、改めて問われると説明が難しい。」そんな人がほとんどではないだろうか。

だが、”イメージ先行”で物事を見ていては、中国という国を理解することはできない。理解できなければ来たるべき判断を誤ることにもなりかねない。

そこで今回紹介したいのが、橋爪大三郎氏の「中国vsアメリカ −宿命の対決と日本の選択−」だ。

本書では政治や経済の制度といった中国の国の外郭を描きながら、現在の中国という国の成り立ち、そしてそれを支える思想とは何かといった思想的な問題を分析する。

また、米国を支える西欧的価値観の根本を宗教学的な視点から眺め、

「なぜ米国と中国の対立が避けられないのか」

「避けられないのであれば、日本はどうするべきなのか」

という日本の戦略的な課題にまで踏み込んでいく。

 

著者紹介

著者の橋爪大三郎氏は1948年生まれの社会学者。東京工業大学名誉教授を務める。

宗教や哲学、社会学などに関する膨大な知識を元に、米国や欧州、中東、そして中国など様々な国の文化や思想・哲学の分析を得意としている。

「世界がわかる宗教社会学入門」(ちくま文庫)、「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)など、一般向けの著作も多数あるが、どれも思想的な深い話題を分かりやすく丁寧な説明で解説が魅力だ。

さて、本書では米中の軍事衝突のシナリオなどを具体的に展開している部分もあり、米中の対立がよりリアルな形で想像できる内容である。

ただ、一番興味深いのは、中国(あるいは中国共産党)と米国の行動原理を、歴史や文化、思想をもとに分析している点だ。

共産党が中国支配を正当化するロジック

中国とは中国共産党が絶対的な権力を持っていることは広く知られている。

しかし、中国共産党としては「支配」しているのではない。彼らは「人民を代表している」のである。そしてそれは人民のためである。

なぜなら、共産党は世界を通底する真理を理解しているからである。

真理を理解していない人民は、様々な局面で間違いを犯す可能性がある。

だから、真理を理解している共産党が人民を代表し、人民を指導することが人民を幸せにすることに繋がる。

簡単に言えば、これが中国共産党が中国を”代表”しているロジックだ。

 

神を信じる国と信じない国の対立

しかし、これは米国の価値観では理解ができない。

なぜなら米国は「神が支配する国」だからである。

米国は神が支配する国であり、それが正しいと信じている。だから、中国のような「人が人を支配する国」という価値観は全く受け入れがたいのである。

 

米国が「神が支配する国」だという点は説明が必要であろう。

確かに米国を実際に動かしているのは「選挙」で選ばれた人たちである。しかし、著者によればこの選挙というシステムは”神の意志”を具現化するための方策なのだ。

米国の価値観を理解する上で非常に重要なポイントなので、少し長くなるが本書の説明を引用しよう。

政府のポストにつく人間(政府職員)を「選挙」で選ぶ。これがアメリカで始まったやり方だ。

「選挙」で選ばれた人間は、どんなに大きな権力があっても、任期が来たら退任する。

「選挙」が彼(彼女) の統治を正当化する。「人が人を支配する」のだが、その支配の根拠は「選挙」である。「選挙」→「人」(支配) → 「人」、であって、人を支配するのは「選挙」なのだ。

「選挙」は人ではない。人々が集合的に表す「意思」」である。一人ひとりは、人間の思いで投票するかもしれない、けれども、人々が真剣に投票するなら、そこに「神の意思」が現れる。選ばれた人間は、神によってそのポストにつけられた、と考える。聖書にそう、書いてあるわけではない。でも、神がこの世を支配しているのなら、「選挙」も支配しているに違いない。「選挙」に従う民主主義は、神に従う道なのだ。

(本書P314)

 つまり、民主主義とは選挙を通じて神の意思を反映するシステムなのだ (少なくとも米国においては)。

だから、神の意思を反映せず”人が人を支配する”中国のシステムは米国には全く受け入れられないのである。

著者はここにこそ米中対立の根源的問題があるという。すなわち「米中対立とは、神を信じる国と信じない国の対立」なのである。

 

実は米国自身がこの決定的な違いを理解していなかった。だからこそ、WTO (世界貿易機関)などの自由主義システムに中国を受け入れ飼いならそうとした。

資本主義、自由主義の洗礼を受ければ中国も変わるはず。なぜならそれこそ神の意思を反映させた唯一絶対の方法なのだから。米国、そして欧州諸国もまた無邪気にそのように信じていた。

しかし、そうではなかった。

資本主義、自由主義をも巻き込みながら、中国は民主主義ではない別の方針をさらに強化し、米国をも抜き去ろうとしている。

ここに来てようやく米国は自らの認識が甘かったことを理解したのだ。

中国と米国の対立はもはや決定的となっている。大統領がバイデンになろうが、その方針は変わらない。

 

日本に残された選択

では、そのような米中対立が決定的となった状況で日本は何ができるのだろうか。

残念ながら”無い”

著者は言う。

「日本に、米中対決の行方を左右する力はない。むしろ、米中対立のあおりを喰らって、翻弄されることになろう。」と。

中国の軍事費は毎年増加の一途をたどり、2020年には日本の4倍以上に達している。それがもう10年以上続いている。もはやこの差が埋まることは決してない。

さらに、冒頭で述べたように2028年には中国のGDPは米国を追い越す見込みであり、当然軍事費も同様である。

日本が単独で中国と戦争をしても勝つ見込みは全くないし、より強力になった中国に対してアメリカが日本のために戦ってくれる保証はどこにもない。

残念ながら、もうどうしようもない。

こうなることが分かっていて、日本は軍事費の削減を続けてきたのだから後の祭りである。

 

しかし、それは「日本にできることは何もない」ということを意味しない。

日本にできることはある。

それは知ることだ。

米国を知り、中国を知り、来たるべき将来を予測することだ。

 

この話を考えていて私の脳裏に浮かんだのが「Death Note」という漫画のワンシーンだ。

これは「キラ」と呼ばれる大量殺人犯とそれを捕まえる側の壮大な頭脳バトルを描いた作品で、日本のみならず世界でも空前のヒット作となった。

キラを捕まえようとするのは、日本や世界の警察機構、そして「エル」「ニア」と呼ばれる世界を股にかける名探偵である。

この戦いの終盤において事実上キラとエル/ニアの一騎打ちとなり、警察機構は全く役に立たないばかりか、キラにもエル/ニアにも煙たがられる地味な存在となってしまう。

 

物語の終盤で、警察のとある刑事がそれでも何とかキラの尻尾を掴もうと、あの手この手で動き回るシーンが出てくるのだが、その時本来仲間であるはずの「ニア」という探偵から「邪魔をするな」と釘を刺されてしまう。

「キラ、ニア、ともに最終盤に向けて準備を進めている。私たち二人で決着をつけるしかない。あなた方警察はもう蚊帳の外なのです。それを自覚し邪魔だけはしないでください。」と告げられます。

その刑事は愕然とするのですが、その時にニアがこう言うのです。

「私に協力してくれるのなら、キラを見張っておいて欲しい。それは存在意義がないということではない。”あなた達が見ている”ということが意義があるのです。」と。

 

私は今の日本、米国、中国の関係はまさにこれと酷似していると思います。

Death Noteで言えば、

犯人のキラは中国。

探偵のニアは米国。

そして警察は日本です。

中国と米国は対決に向けて着々と準備を進めている。その間に挟まれた日本にできることは何もないのだから、おとなしくしておいて欲しい。

ただ、ちゃんと中国と米国がやっていることを見て、知っておいて欲しい。そして、来たるべき時にはしっかりと正しい判断を下して欲しい。

米国も中国もそう思っているのではないでしょうか。

そしてその判断を下すべき時は、もうすぐそこにまで迫っています。

 

もはや米中対立を日本が”どうこう”なんてことはできるはずもない。

だったら、確実にできる「知る」ということを行うことは、何よりも必要なことではないでしょうか。

本書はそのための基礎を身につけるための重要な本になりえると私は思います。

 

 

という訳で、今回ご紹介したのは橋爪大三郎 著「中国vsアメリカー宿命の対決と日本の選択」でした。

長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

 

名探偵コナンが握る日本経済復活の鍵。最新作「緋色の不在証明」。

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人にはそれぞれ他人には決して言えない秘密がありますよね。

私にも秘密はあります。

それは・・・

 

40歳過ぎてもいまだに名探偵コナンの映画を毎年観に行っていることです!!

しかも20年以上!!

ドーン!!

 

言ってしまった・・・ついに・・・。私の恥ずかしい秘密を・・・。

でも「40代のおっさんが名探偵コナンとかww」と思った、そこのアナタ!!

名探偵コナンを馬鹿にしてはいけませんよ。

私はぶっちゃけ名探偵コナンこそが現在の日本を救う」と思っています!もちろん映画の中の世界ではありません。現実世界の日本を、です。

なぜTVアニメのコナンが日本を救うのか?

今回は名探偵コナンの映画のレビューを交えつつ、その核心に迫りたいと思います。 

 

「緋色の不在証明」って面白い?

では、まずは今回私が見てきた名探偵コナンの最新作のレビューから行きましょう。

※コナン作品自体にそれほど興味がない人は、このセクション飛ばしてもらってOKです^^

今回私が観てきた作品はこちら。

劇場版「名探偵コナン 緋色の弾丸」!

・・・というのは嘘です。

すみません!

 

これは2020年に公開されるはずだったのですが、コロナ禍で延期になり今年の4月16日から公開になります。

まだ上映していません!(笑)

今回私が見てきたのは、その1年間空いた穴埋めのために急遽手抜きで製作された・・・もとい(笑)、1年間お待たせしたファンのために最新作を見どころシーンを過去作品から選りすぐったスペシャルドラマ、”特別総集編「名探偵コナン 緋色の不在証明」”です↓↓↓

 名探偵コナンのファンはすでにご存知の通り、このアニメにはFBI、CIA、MI6、果ては国家公安委員会まで世界の名だたる警察組織やスパイ組織が登場します。

今回はその中でもFBIの凄腕エージェント・赤井秀一という人物の家族に焦点を当てた物語になります。ちなみに、赤井秀一の声優さんは池田秀一。あのガンダムで”シャア・アズナブル”を演じている方です。

なので、名前が赤井秀一

さらに、そのライバルとなる人物が国家公安委員会の安室透 (あむろ とおる) であり、その声優はガンダムアムロ・レイを演じる古谷徹さんです。

時空と作品を超えて、アムロとシャアが戦う・・・それが名探偵コナンです(笑)。

 

さて、本来昨年公開されるはずだった「緋色の弾丸」という作品で、この赤井秀一がフィーチャーされるはずでした。

 

この赤井秀一とその家族は、名探偵コナンにかなり昔から出演しているのですが、家族全員が謎の多い人物であるためコナンとの繋がりもかなり分かりづらくなっています。

母親がMI6の諜報員なのに薬のせいで姿が子どもになっているとか。

赤井秀一はFBIだけど、コナンを殺そうとしている組織にスパイとして侵入。その上、一回死んだと思ったら実は生きていた、とか。

昔から観ているファンじゃないとちょっと理解できないくらい複雑です。

 

という訳で、今作は”「緋色の弾丸」の前にもう一度人間関係を整理しましょうね。そうすれば最新作がもっと楽しめること間違いなし!”というプロモーション作品となっています。

内容は基本的に過去のテレビアニメ作品から赤井一家に関する部分を抜粋し、コナンの解説の付きで編集した内容。

したがって、アニメをがっつり観ている人には残念ながら知っている話ばかりかな。

最後にちょっとしたファンサービスがありますが、映画館で見る必要があるか?というとちょっと疑問かもしれません (逆にコアなファンなら、その最後の数秒のために観る価値があるかも)。

 

私は、映画は結構観てるけどテレビアニメの方はなかなか観れなかったので、今回ちゃんと赤井一家のことが整理できて良かったです。

各キャラのセリフの意味もより深く感じられるようになりましたし。

また、映画館で販売されているパンフレットには、赤井一家を中心としたコナン登場人物の相関図が掲載されているので、映画の内容と合わせると物語がかなりスッキリ。

値段も700円とお手頃価格ですので、映画館に行ったらご購入をお勧めします^^b

 

これで4月公開の「緋色の弾丸」が思いっきり楽しめそう!

IMF国際通貨基金)の重要提言

さて、ではいよいよなぜこの名探偵コナンが日本経済を救うのか、について考えてみましょう。

その手がかりの一つがIMF (国際通貨基金) のゲオリギエワ専任理事の提案にあります (←急に話が変わったな(笑))。

 

下記の記事によりますと氏は「IMFとしては非常に珍しいことだが、現在の政策に関して3月から各国政府に対して支出を促す。最大限お金を使い、さらにもう一段支出を増やすように求める」と述べた。「生産と消費双方を意図的に制限している時期だ。経済崩壊を防ぐための緩和的な金融政策と財政政策を引き続き主張する」と述べた模様。

 

また下記のBloombergの記事でも「世界規模で同期した財政出動で協調する根拠は時間を追うごとに強まっている」と述べたと報じられています。

 財政政策というのは政府が行う経済対策のことで、主に国債などからお金を調達して政府主導で事業を行ったり、投資を行ったりすることです。

つまり、このIMFの提言というのは「各国政府は経済復興のためにお金をガンガン使え。最大限使え。いや、最大限以上に使え。そして、それを世界各国が同時に使え。」という意味なのです。

IMFという機関は通常「無駄なお金を使うな。節約しろ。」という”寄宿路線”を取ってきましたが、そのIMFでさえ「四の五の言ってないで政府が金使え!」という積極財政派に転じたということです。

そして、この積極財政アプローチによる経済復興の申し子が、まさに名探偵コナンの世界観なのです!

ファンタジック・アクション映画「名探偵コナン

名探偵コナンの映画を観たことがない人は恐らく勘違いしているのですが、名探偵コナンは”推理ドラマ”ではありません。

小学生の江戸川コナンがミッションインポッシブルのトム・クルーズを超える、超絶アクションを繰り広げる”ファンタジック・アクション映画”なのです!!(笑)

コナンの映画ではほぼ毎回新しい大規模施設(サッカースタジアム、飛行船、高層ビル、テーマパークなど)が建設され、そこで大爆発などが起こり破壊されます。

その危機を小学生のコナンが”眼鏡やサッカーボールやスケボーを駆使して”被害を収めてしまうのです。

うん。まぁ、冷静に考えると確実におかしいんですけどね・・・。

 

それはともかく、映画の冒頭では毎回新しい建造物やテーマパークが登場します。そして見た瞬間に「今回はこれが破壊されるんだな」と分かります・・・。むしろ”破壊されるために作られた建造物”と言った方が良いでしょう。

確かに破壊されるために作られるというのは無駄かもしれません。

しかし、実は日本のようなデフレ不況で苦しむ国においては、このコナンの世界のような「何も作らないより、無駄になっても作る」方が正しいのです。

これこそが日本経済復活のカギを名探偵コナンが握っているという秘密です。

政府が使うお金は無駄になっても良い?

先ほどもご紹介したようにIMFは経済復興のために政府の財政拡大を強く求めています。

なぜでしょうか?

それはコロナ禍のような状況では国民の需要 (あれが欲しい、これが必要だという欲求のこと)が抑えられるため、民間企業は投資をしづらいからです。

経済が縮小している状況では、投資に見合う利益が見込めませんので、従業員削減、労働時間短縮などのコスト削減に走ります。

一方、国民の方もこのような異常な状況では消費を渋ります。巣ごもり需要が拡大しているとは言え、それはあくまで一部の話であり、ほとんどの家庭で財布の紐がきつくなっています。

これはこれで合理的な行動であり、誰かが間違っているわけではありません。

 

しかし、誰かがお金を使わなければ経済は回らない。これも事実。

民間がお金を使いづらいのであれば、政府がお金を使うしかない。

だから、IMFは各国政府に積極的にお金を使う政策を行うように要請しているのです。

財政問題が・・・」などと言っている間に、自国経済がつぶれてしまっては元も子もない!とにかく政府は金を使って需要不足を補え!ということです。

 

この”需要不足”によるデフレという現象が恐ろしいのは、誰もお金を使わなくなることです。

お金を使ったことへのリターンが少なくなるために、民間も個人もどんどんお金を渋るようになる。リスクを背負ってお金を使うよりも、確実に貯金しておく方向に走る。

だから、仮にお金を使うことになったとしても、”費用”と”見返り”のバランスをめちゃくちゃ慎重に見極めることになります。

それが国家レベルになると、地震や台風などの災害大国でも

「本当にその設備は必要なのか? 」

「その設備を作る分、どこかのお金を削らないと・・・。」

という緊縮発想になってしまいます。

 

しかし、残念ながら根本から間違っている。

日本政府というのは民間企業ではなく”非営利団体”です。利益を出す必要はありません。

利益を出さずに正常な運営ができるように、通貨を自分で発行できる強力な権限が与えられている。自分で通貨を発行できる政府が財政破綻なんてする訳がない(もちろん限界はありますが、その話は長くなるのでここでは割愛します)。

無駄がなく効率的に使えればそれがベストですが、最悪なのは無駄を恐れて何もお金を使わないことです。

無駄だと分かっていても使った方が、お金を使わないよりも100倍、いや10,000倍マシなのです。

 

だからこそ日本は名探偵コナンの世界を見習って、もっとお金を使うべきなのです。

国民も民間企業もお金を使わないのですから、政府が使うしかない。

名探偵コナンの世界観こそがデフレ不況に苦しむ日本を救う唯一の解決策である。

長年名探偵コナンの映画を観てきた私は自信を持ってそう言い切れます。

日本の政治家にこそ名探偵コナンをぜひ劇場で観てほしい!!

それこそが日本経済復活の狼煙となるのだと私は信じています。

 

という訳で、皆さん4月公開の名探偵コナン激情版最新作「緋色の弾丸」を観て、正しい経済観を学びましょう!

 

 

自由貿易とは”自由に略奪するルール”を作る歴史だった。福田邦夫「貿易の世界史」

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ご存知の通り日本という国は資源が非常に少ない国です。

そんな日本にとって海外との貿易は欠かせない要素の一つ。

そして日本においては、「貿易」と言えば企業が自由に海外市場で競争できる「自由貿易」が当たり前だと思われています。

しかし、本当にそうでしょうか?

 

 

米ソ冷戦が終結した1990年代以降、世界ではいわゆる自由貿易が広がっていきました。

ところが、国際NGOオックスファムのレポートによると、世界人口の1%にあたる富裕層が持つ富は、残りの人口の99%が持つ富の合計を上回るという、異常な経済格差が世界に広がっています。

そして、アメリカ社会の分断、英国離脱など不協和音が出始めているEU、そして自由貿易によって強大な経済力を身に着けた中国の台頭など・・・自由貿易で繁栄すると思われていた世界が、目まぐるしく不安定化している姿も私たちが最近目にしているところです。

 

自由で公正なはずの貿易がなぜこのような結果を生んでいるのか?

その原因を貿易の歴史の中に求めた本があります。

それがこちら。福田邦夫著「貿易の世界史」です。 

本書では、自由貿易という概念が広がった大航海時代にまでさかのぼり、自由貿易の本質を探ります。

貿易というものがどのように発展してきたのか。

それは誰のために、誰によって進められ、誰が利益を得てきたのか。

そして、これから世界の貿易はどのように進んでいくのか。

貿易の実態を歴史的に検証することで貿易の本質と今後進むべき道が明らかになります。

 

「世界の人々が国を越えて交流する」という表層的なイメージの奥にある実態を知ることで、「海外との経済的な交易」をどのように進めるべきか考えるきっかけになる著作です。

「自由な貿易」は誰のための物か

私たち日本人は外国と交易をするというと、すなわち「自由貿易」のことだと考えます。

実際、多くの政治家やビジネスエリートたちが

「開かれた自由で公正な市場を守らねばならない」

「自由な貿易が経済を発展させる」

自由貿易の推進を訴えています。

・・が、本当にそうなのでしょうか?

 

かつて日本が現在と同じようなデフレ恐慌に陥った時に、日本経済を救った高橋是清という政治家がいました。

彼は自由貿易について次のように述べています。

「欧米列強が自由貿易を主張するとき、彼らは原理原則に従ってそれを主張しているのではなく、彼ら自身の利益のために主張している」と。

すなわち「自由とは自分たちが勝つための方便として使っているだけであり、誰も真の自由貿易なんか求めちゃいない」ということです。

 

本書において詳述される貿易の歴史を見ると、ヨーロッパ諸国がまさにそのような「自己利益を最大化するための自由」という思想の下、世界に進出していったことが明らかになります。

自由で公正なルールが略奪を生む?

この本の中では、スペイン、オランダ、イギリスといったかつての覇権国家が、自由貿易の名の下に世界中で富を収奪した歴史が語られます。

ただ、これ自体は特に本書オリジナルの考え方ではありません。

 

実際、ほとんどの人が義務教育で

・アフリカ大陸から黒人奴隷を買い取ってプランテーションなどで労働させる「奴隷貿易

・イギリスがインドから中国へアヘンという麻薬を輸出させ暴利を貪る一方、中国を麻薬漬けにした三角貿易

といった、貿易の歴史を学んだことを覚えているかと思います。

したがって、歴史的に見れば、貿易とは”先進国による後進国からの収奪の歴史だった”ことは間違いありません。

 

しかしながら、現実にはほとんどの人がむしろ「貿易こそが世界を活性化させる」と信じているわけです。

その理由は

「過去の悲惨な貿易はヨーロッパ諸国が暴力を使って、後進国の富を力づくで奪い取ったからだ。暴力を使わせない公正なルールを作れば”自由、公正で、お互いWin-Winの関係となる貿易”が実現できるはずだ」

と考えているからです。

実はここに根本的な誤解があります。

 

実は、ヨーロッパ諸国は暴力で富を奪い取ったのではありません。

むしろ、貿易のルールづくりを自国に優位に導くことで行われてきたのです

暴力による貿易は効率が悪い

略奪行為というとすぐに「暴力を伴うもの」と思いがちですが、実は貿易においてはそうではありません。

大航海時代の初期段階においては、当時の覇権国スペインやポルトガルは確かに暴力によって、インカ帝国アステカ帝国を滅ぼし、その金銀財宝を略奪しました。

ただ、残念ながら金銀財宝といった鉱産物は必ず底がつきます。無尽蔵に発掘できるわけではありません。初期の大航海時代ではこの失敗によって覇権国家は衰退しました。

そこで次世代の覇権国家であるオランダやイギリスは、綿花生産や香辛料など”増産可能な産物”を自分たちに都合の良い金額で、都合の良い量を吸い上げることで富を蓄えていきました。つまり貿易によってです。

 

もちろん、そこではあからさまな暴力は使いません。

それは平和的な貿易を目指したからではありません。単純に暴力支配は効率が悪いからです。

当たり前ですが、ヨーロッパから遠い南アジア、東南アジアへ軍隊を派遣すること自体が非常に困難です。

もし仮に一時的な勝利が獲得できたとしても、何年もの間、圧倒的に人数の多い現地を力で抑え込み続けるのは不可能。

だから、暴力に訴える支配は効率が悪いのです。

 

そこでヨーロッパ諸国が現地支配のために用いたのが、社会の分断です。

現地の特定勢力に利益を与え、彼らに統治を行わせる。もし反対する勢力が出てきたら、そちらにも利益を与え、敢えて衝突させる。

それによって国を疲弊させることで、その国を統治しやすくするわけです。

そして、一番強い勢力に利益を与え続けることで、彼らを通してその国を支配するという手法をとりました。

 

特定の勢力に力や利益を与えることで、間接的にその土地から利益を吸い上げるシステムを作り出す。

このような「貿易システム」こそがヨーロッパ諸国が世界の覇権を手にした要因だったのです。

貿易における「自由」とは自分勝手の正当化

このような貿易のシステム作りやルール作りの重要性に早くから気付いていた欧米諸国は、「自分に優位なルール」を相手に押し付けるための技術を長年磨いてきました。

その技術の一つが「自由」という言葉です。

私たちは自由と言えば無条件で良いものだと思いがちですが、実はこれほど自分に都合が良いように人を操れる言葉はありません。

 

たとえば、記憶に新しいTPPこと環太平洋連携協定への参加が盛んに議論されていた時、「非関税障壁」という言葉が頻繁に使われました。

非関税障壁というのは、文字通り関税ではないが貿易の障害になるものです。

以前アメリカは日本で米国車が売れないのは、軽自動車などという物があるからだと難癖をつけてきたことがあります。

日本人の感覚では大きすぎて燃費の悪い米国車よりも、小さく経済的な軽自動車を選ぶのは”自由”なわけですが、「軽自動車という日本独自の規格」こそが非関税障壁と認定されることになり得ます。

この論法でいけば、日本で日本語が使われるのも非関税障壁となります。日本で英語でビジネスができないのは、アメリカ人にとっては不自由である、というわけです。

 

TPPの議論の際、アメリカの経済学者ジョセフ・E・スティグリッツ教授が次のように述べていました。

「もしある国が本当の自由貿易協定を批准するとしたら、その批准書の長さは3ページくらいのものだろう。」と。

確かに完全に自由な貿易だということならば、「一切の規制をするな。企業への補助も行うな。」だけで済むはずです。

しかしながら、実際にはTPPの協定書は数千ページにも及ぶ長大な文書になった。

つまり、彼らの言う自由とは「自分にとって都合が良い自由」のことであり、それを各国に認めさせるためには、それだけ膨大な説明書きがなければ成り立たなかった、ということなのです。

まさに高橋是清が指摘したように

「欧米列強が自由貿易を主張するとき、彼らは原理原則に従ってそれを主張しているのではなく、彼ら自身の利益のために主張している」のです。

今こそ貿易の意義を考え直すべき 

私たち日本人は”閉鎖性コンプレックス”、”島国根性コンプレックス”が染み付いています。

そのため「閉鎖的だ」「日本的だ」「海外では〜」と言われると、頭を叩かれたように一瞬で”しょんぼり”してしまいます。

その習性ゆえに、貿易というのは無条件に良いものであり、積極的に展開していかなければならない物だと無自覚に信じています。

しかし、この本で明らかにされているように、貿易とは必ずしもそのような”自由で、公正な”素晴らしいものとは言えない側面があります。

 

もちろん資源小国である日本が完全に鎖国化することはできません。

しかし、だからと言ってありもしない”自由で、公正で、開かれた貿易”などという幻想にしがみついて良い訳でもありません。

貿易とは”貿易することが正しい”からやる訳ではない。あくまで自分たちの利益になるからやるものです。

欧米諸国はそれを理解しているからこそ、貿易のルール作りのために権謀術数を用いているし、それを大航海時代以来何百年も繰り広げているのです。

日本人の美徳とされる”ルールを守って行動する”という律儀さは、そのような狡猾な欧米諸国との貿易戦争においてもむしろ百害あって一利なしといえるかもしれません。

 

海外との貿易が日本にとって必要なのは間違いありません。

だからと言って、すぐさま「じゃあ、自由貿易だ」というのは話ではない。

なぜなら、その自由貿易というルールがそもそも欧米諸国が優位に立つために作り上げられたルールだからです。

欧米諸国との貿易戦争で勝ち抜くためには、「自由貿易は正しい」というナイーブな幻想から離れ、自国の利益を拡大するための戦いであるという現実を再認識する必要があります。

そのような貿易の意義を改めて問い直す上で、本書で描かれている貿易の歴史は私たちにとって非常に重要な意味があるのではないでしょうか。

  

という訳で、今回ご紹介したのはこちら

福田邦夫 著「貿易の世界史」でした。

今回も最後まで長文をお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m 

 

コロナ対策給付金で家計の金融資産が297万円増えた!? 日銀報告書のデタラメさに呆れるしかない。

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日銀や金融団体などで構成する金融広報中央委員会がまとめた「家計の金融行動に関する世論調査」によると、コロナ禍の2020年において2人以上の世帯が保有する金融資産の平均額が、2019年より297万円増えて1,436万円になったそうです。

この要因について、同委員会は「新型コロナ感染拡大で支出が保守的になった一方、給付金の支給などで金融資産の増加につながった」という説明しているとのことです。

この感想を一言で言えば・・・・

 

アホか!!!

ですね。それ以外ない。

 ただ、「アホか!」とは思いますが、「嘘だ!」という訳ではありません。

今回の報道は世間をミスリードするためのちょっとしたカラクリがあるのです。

 

金融資産って何よ?

下記の金融広報中央委員会のHPに詳細な調査が載っているのですが、これによれば今回の報道自体は「まるっきり嘘」ではありません。ただ、本当のこと、あるいはかなりグレーなことを都合の良いように切り貼りし、”意図的に”ミスリードしていることが分かります。

金融広報中央委員会のHP

家計の金融行動に関する世論調査|知るぽると

 

まず、冒頭でも紹介した同委員会の説明。

「同委員会は「新型コロナ感染拡大で支出が保守的になった一方、給付金の支給などで金融資産の増加につながった

これですが、通常”金融資産”というと貯蓄や金、不動産といった資産のことだと考える人が多いと思います。しかし、今回の調査においてはこれは間違いです。なぜなら、調査報告書の中で金融資産を次のように定義しているからです。

すなわち

1)家計が保有する金融資産全般

2)預貯金は”運用”目的で蓄えている部分のみを算入(日常的な出し入れ・引き落しに備えている部分は含まない)。また、手許現金や貴金属等は含まない。

です。

つまり、今回の調査における金融資産とは

運用目的で蓄えているお金のみ。

通常手元に持っているお金は含まない。

ということです。

 

したがって、同委員会が言うようなコロナ対策給付金で金融資産が増えた人というのは、10万円の現金給付を運用目的として使った、あるいは貯めてある人ということ。

この状況の中で10万円を運用目的 (投資) に使用する人って、ほぼ間違いなく上流階級の人でしょう。日々の生活で困っている人は眼中にない。

 

調査対象者の資産が世間と乖離している

この調査で気になるのは、調査対象自体がそもそも世間一般からかなり乖離していることです。

たとえば回答者が保有している資産状況を見てみましょう。

同調査によると、回答者のうち”運用目的として”金融資産を1,000万円以上保有している人の割合が何と39.5%その内3,000万円以上保有している世帯が13.3%もいるのです。

そりゃ、10万円もらえば全部投資に回すし、金融資産も増えるでしょう。

 

また、それらの金融資産保有世帯のうち、1年前と比べ金融資産残高が「増えた」と回答した世帯の増加理由をみると

「定例的な収入からの貯蓄割合の引き上げ」(29.9%)

「株式・債券価格の上昇による評価額の増加」(11.4%)

の割合が前回よりも上昇。

 

一方、「減った」と回答した世帯の減少理由では

「株式・債券価格の低下による評価額の減少」(26.5%)

で第一位です。

 

金融資産が減るにしろ、増えるにしろ、その理由が「株式・債券の価格変動が原因」ということで、やはりこれも上流階級感覚を反映した調査結果と言えるでしょう。

ちなみに、金融資産が増加した人の3割を占める「定例的な収入からの貯蓄割合の引き上げ」にしても、このコロナ恐慌において収入が増えるというのはやはり一般人の感覚からは考えられない話ですね。

 

次に、「家計の運営」と「資産・負債バランス」について見てみると

〇 二人以上世帯の過去1年間の家計運営の評価

「思ったより、ゆとりのある家計運営ができた」7.7%

「思ったような家計運営ができた」30.3%

「意識したことがない」19.9%

 

〇二人以上世帯の家計の資産・負債バランス

「資産と負債のバランスにはゆとりがある」9.0%

「資 産と負債のバランスについて不安はない」12.1%

「意識したことがない」60.6%

 

家計の運営、および資産・負債のバランスについて「ゆとりがある」「意識したことがない」が半数以上となっています。

日頃世間で報道されているように、名だたる大企業が次々と倒産、赤字計上をしている中で「ゆとりがある」「家計運営について意識したことがない」が半数以上というのは、やはりかなり一般的な世帯感覚とは乖離していると言わざるを得ません。

この結果を「世間の平均では金融資産が増えた」かのように報じるのは、相当問題があるのではないでしょうか。

 

報道者は「事実を伝えること」に専念せよ

繰り返しますが、この調査報告書自体は何も嘘を書いていません。

ただ、報道する側が

・運用目的の資産を持っている人たちの金融資産が297万円増えました (事実)

 ↓

・コロナ対策で10万円の現金給付がありました。(事実)

・だからコロナ対策で国民の金融資産が平均297万円増えました。

 

という無茶苦茶な三段論法を作り上げているだけです。

その理由とはもちろん「現金給付を二度と行わないための世論づくり」でしょう。

一度目の現金給付で国民の資産が297万円も増えたのだから、再度現金給付を行う必要はない。

むしろそのお金を使わせて経済を回す努力(GO TOキャンペーンとか)を行うべきだ!という空気作りです。

この空気に負けてはならない。

コロナ恐慌の中でも平気で(ほぼ)捏造報道を行うメディアに流されないよう気をつけてください!

 

今回も長文を最後まで読んでいただきありがとうございました😊

アンデシュ・ハンセン著「スマホ脳」。脳の進化がスマホを引き寄せる

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スマホの見すぎは体に悪い!」

そう言われて真っ向から反論できる人はそういないでしょう。

睡眠障害うつ病、記憶力や集中力の低下、ブルーライトによる目への悪影響など、スマホによる障害は枚挙に暇がありません。そうは分かっていてもついつい手が伸びてしまう・・・それがスマホの恐ろしさです。

 

そんなスマホの脳や精神への影響を脳科学や精神以外の観点から分析したのが、今回ご紹介するこちらの本。 アンデシュ・ハンセン著「スマホ脳」です。

「なんとなく悪いと分かってるけど止められない・・・。」

そんな甘っちょろいことを言っていたら脳や精神がどうなってしまうのか?を解き明かす恐ろしい本です(笑)。

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

著者紹介

1974年スウェーデン生まれ。精神科医。病院勤務の傍らメディア活動を続けている。

前作「一流の頭脳」は、スウェーデンで15人に1人が読んだというほどの大ベストセラーになり、世界的人気を獲得。またストックホルム商科大学でMBA (経営学修士) を取得するという異色の経歴の持ち主でもある。

 

日本人は1日に何時間スマホを見ている?

あなたは1日のうち何時間スマホを見ていますか?

MMD研究所が発表した「2019年版:スマートフォン利用者実態調査」の結果によると、スマホの利用時間を尋ねたところ、「2時間以上3時間未満」(21.8%)が最も多かったようです。また、性年代別でスマホの利用時間が最も多かった時間を見ると

<男性>

10代「3時間以上4時間未満」

20~30代で「2時間以上3時間未満」

50代で「1時間以上2時間未満」

 

<女性>

10代「3時間以上4時間未満」

20代〜30代「3時間以上4時間未満」

40代~50代で「2時間以上3時間未満」

※女性の場合、10〜30代では4時間以上が過半数

 

睡眠時間や食事、仕事や学校などの時間を除くと、一日のうち自由になる時間は多い人でも4〜5時間というところだと思いますが、その半分以上の時間をスマホに使っているということになります。

我々はスマホを見るために生きている!と言っても過言ではないかもしれません。

なぜついついスマホを見てしまうのか

冒頭に書いたように、スマホが与える健康への悪影響はさまざまな所で取り上げられています。それにも関わらず一日のうちの膨大な時間を私たちはスマホに費やしているわけです。

なぜこれほどまでにスマホは私たちを引きつけてしまうのでしょうか?

その理由を人類の脳が進化してきた歴史の中から導きだしたのが、著者であるアンデシュ・ハンセンです。

 

著者は、本書の中でさまざまな脳の仕組みを解説しながら、その要因を探っていきますが、人類の進化とスマホの関係を象徴する一文があります。それは「周囲の環境を理解するほど、生き延びられる可能性が高まるーその結果、自然は人間に、新たしい情報を探そうとする本能を与えた。」という一文です。

言うなれば、「人類は厳しい自然の中で生き残る確率を上げるため、新しい情報を貪欲に求めてきた。常に新しい情報を届け続けるスマホは、そのような人間の生存本能を刺激し続ける存在である。つまり、人間の生存本能を刺激して依存させるようにスマホは設計されている。」ということ。

だから人間はスマホの魅力にやすやすと取り込まれてしまうというわけです。

ドーパミンが人間をスマホに惹きつける

人間はその生存本能ゆえにスマホに惹きつけられる。

本書ではその具体的なシステムについて詳しく、しかも分かりやすく解説してありますので是非手に取って頂きたいのですが、一つだけ人間の脳をスマホに惹きつける物質について具体的な例を紹介したいと思います。

それはドーパミンです。

 

ドーパミンという名前を聞いたことがある人は多いと思います。恐らく世界で最も有名な脳内物質ではないでしょうか。”快楽物質”として有名なドーパミンですが、実は「ドーパミンの最も重要な役目は私たちを元気にすることではなく、何に集中するかを選択させることだ。つまり人間の原動力とも言える。」そうです。

人間の原動力と言われると身体にエネルギーを与えてくれる”良い物質”のように思われますが、実はそれこそがスマホへの依存度を高めてしまうとのこと。著者によると

報酬システムでは、ドーパミンが重要な役割を果たし、生き延びて遺伝子を残せるように人間を突き動かしてきた。つまり、食料、他人との付き合いー人間のように群れで暮らす動物にとっては大切なことーそしてセックスによってドーパミン量が増えるのは、不思議なことではない。だが、スマホドーパミン量を増やす。それが、チャットの通知が届くとスマホを見たい衝動にかられる理由だ。スマホは、報酬システムの基礎的なメカニズムの数々をダイレクトにハッキングしているのだ。

(中略)

周囲の環境を理解するほど、生き延びられる可能性が高まるーその結果、自然は人間に、新たしい情報を探そうとする本能を与えた。この本能の裏にある脳内物質はなんだろうか。もうお分かりだろう。そう、ドーパミンだ。新しいことを学ぶと脳はドーパミンを放出する。

(本書P70)

つまり、私たちの脳はパソコンやスマホのページをめくるごとにドーパミンを放出し、それによって私たちはますますクリックするが大好きになる、というわけです。

著者はこう言います。

「我々の脳はスマホにハッキングされている」と。

 

脳はなぜ存在するのか

ちょっと話が脱線しますが、この生存本能が人をスマホに惹きつけるという著者の主張を読んだ時に思い出したのが、レイ・カーツワイルという学者の言葉です。

レイ・カーツワイルという人物は人工知能の研究分野では世界的に有名で、「シンギュラリティ」という概念を提唱した人でもあります。シンギュラリティというのは日本語では「技術的特異点」と言われ、人工知能が自分で人間より賢い知能を生み出す事が可能になる時点を指し、これ以降人工知能は人間の知性を超えて進化し続けるという考えかたです。レイ・カーツワイルによる2045年にはこのシンギュラリティが訪れると言われています。

 

そのレイ・カーツワイルは「人類の未来」という本の中で次のように語っています。

「なぜ脳があるかと言えば、それは将来を予測するためです。現在の自分の行動ないし非行動が、将来どのような結果を生むのかを予測するために、脳は存在する。」のだと。

例えば「あの動物があちらに移動しているので、もしこの道をこのまま進んだら遭遇するかもしれない。危険だから別の道にしよう」というように、”情報から推測する”ことで人類は生存率を高めてきた。

 

人類は生存競争を生き抜くために進化をしてきたのであり、情報を取得し、そこから推測する力を持つために脳が発達してきた。

だとすると、やはり本書でアンデシュ・ハンセン氏が言うように新しい知識を得るために人間がスマホに惹きつけられてしまうのは仕方のないことなのかもしれません。

 

上述のレイ・カーツワイルの言葉はこちらの本に掲載されています。この本も面白いので別にレビューを書きたいです。そのうち・・・。

吉成真由美 著「人類の未来」。

スマホ脳から脱する方法

このようにスマホが脳に与える影響を脳科学、精神科学的な解析から読み解きながら、著者はさまざまな具体的な弊害を紹介しています。具体的には、睡眠障害、子供のスマホ依存、若者の精神不調の急増、IQの低下、食欲低減などなど・・・ここでは紹介しきれないほどで、読んでいるとスマホを持つのが恐くなります(笑)。

では、この恐ろしいスマホの影響からどうすれば抜け出すことができるのか? 

 

著者が推奨している対策はとてもシンプルで、誰にでも今すぐできること。

それは「運動」です。

それも取り立てて難しい運動ではなく「20分の散歩を週3回やるだけ」。精神科医でもある著者の研究によると、これだけでスマホ依存による不安やストレスを軽減させることができるそうです。

「・・・なんか普通だな・・・」と思いましたか? (笑)

まぁ、そうですね。普通だと思います。取り立てて新しい話ではないかもしれません。

ただ、著者が運動を推奨する理由もまた「人類の進化の歴史」に根ざしています。

 

人間は地球上での時間の99%を「闘争か、逃走か」つまり生きるか死ぬかの環境で生きてきました。その中では身体コンディションが良い人の方が生き残る可能性が高まります。人間がストレスを感じるのは、そのような生存競争の中で、人間に不安感を与えることで身体を急激に戦闘モードへと導くために必要なシステムだったからです。しかし、よく身体を鍛えている人は危機が近づいても、このストレス状態に陥ることなく、素早く逃げたり、相手を攻撃することができた。だから身体を鍛えている人ほど、ストレス発生のシステムを作動させる必要がない。このシステムは現代でも変わっていません。

身体の状態がいい人はストレスシステムを事前に作動させる必要がない。脅威かもしれない対象を攻撃したり、逃げ出したりする体力があるからだ。それが不安の軽減につながる。(本書P212)
 

本当は散歩よりも、息が弾むくらいのランニングを20分、週3回やった方がより高い効果がそうです。著者の研究によると、不安の軽減が運動直後だけでなく、その後24時間続き、さらに1週間後も不安のレベルは低い状態をキープできたそうです。いきなりそこまでやるのはなかなか難しいと思います。まずは20分の散歩から生活に取り入れてみてはいかがでしょうか。

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちらの本でした。

アンデシュ・ハンセン著「スマホ脳」。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

 

 

電話で尖閣を守れると思っている夢想家集団・菅政権

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米国でバイデン政権が誕生したことを受け、早速日本政府の「お慶び申し上げます」外交が始まっています。岸信夫防衛相は世界最速で新しい国務長官に電話したとかで、誇らしげに語られているようですが、その会談の内容がロクでもない…。

岸信夫防衛相は24日、バイデン米政権で新たに就任したロイド・オースティン国防長官と初の電話会談を行った。東・南シナ海で軍事的影響力を強める中国をにらみ、沖縄県尖閣諸島が米国による防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条の適用対象だと確認。 

端的に言えば

日本政府「尖閣諸島に中国が攻めてきたら守ってくれますよね」

アメリカ政府「米国が守る領域には含まれている」

日本政府「あー。良かった。これで中国が攻めてきても安心だ〜。」

 

何なんですかね、これは・・・。

仮にアメリカが「どのような犠牲を払ってでも、尖閣諸島は米国が守る」と言っているのならまだしも、「まぁ、守る地域には入ってるね」と確認しただけです。

 

実はこの「確認作業」は、バイデン氏が大統領選に勝利したとされた際に、菅首相がバイデン氏に「お喜び申し上げます電話」をした時にも行われました。つまりこの二ヶ月ほどの間に二度も内閣関係者が「アメリカは尖閣諸島を守ってくれるんですよね?」という確認作業をしているのです。なんでこんなに頻繁に確認作業を行うのでしょうか?

 

この背景には昨年から尖閣における日本と中国の諍いが先鋭化していることがあります。

 

日本ではほとんど報じられていないのですが、昨年2020年8月21日、イギリスのロンドン大学のアレッシオ・パタラーノ博士が「嵐の集い—魚釣島をめぐる中国の略奪戦略」という論文を発表して話題になりました。

この中で博士は「7月5日が中国の海事活動の新局面を迎えた転換点だ」として、次のように述べています。

中国の公船による39時間23分間にわたる領海侵入単なる「侵入」ではなく、「主権海域の本格的法執行パトロールであり、この中国の行動が日本統治に対する完全な挑戦に向かう」と強調した。この長期滞在中、公船は島から平均4~6マイルまで近づいた海域を航行し、一時的に海岸線から2マイル半まで迫ったと伝えられている。さらに、日本の漁船に接近し、法執行を行使しようとする行為まで行ったのでないかと懸念している。

これはメチャクチャ重要な指摘です。

中国としては日本の領域に"侵入"しているという認識ではなく、"中国の領域に日本が侵入している"という認識だというのです。

さらに、先日1月22日に中国は、日本の海上保安庁に当たる海上法執行機関である中国海警局に、武器使用を含む任務と権限を定めた「海警法」を可決しました。

時事通信によると

中国の主権や管轄権を侵害する外国の組織、個人に対して、海警局が「武器の使用を含むあらゆる必要な措置」を取り、危険を排除する権利があると明記。中国の法に違反した外国の軍艦や公船に関しても、退去を命令したり強制的な措置を取ったりすることができると規定している。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.jiji.com/amp/article%3fk=2021012200744&g=int

とのこと。

つまり、中国固有の領土である尖閣諸島に日本の艦船が不法侵入した場合、中国は法律に基づきその外国船を武力で排除できることになった、ということです。

だからこそ日本政府は慌てて「アメリカさんは日本を守ってくれるんですよね!?」と確認しているということなのです。

 

本来なら自分の国は自分で守るというのが当たり前の話ですが、それを完全に放棄してアメリカ様に約束を取り付けるのが精一杯。しかも電話で一本で(笑)。

それにしても、これだけ必死にアメリカにすがる日本政府ですが、本当に有事が起こった際にアメリカは中国と戦争してまで日本を助けてくれるのでしょうか?

 

東日本大地震述べて時に「おトモダチ作戦だ」とか言って駆けつけた割には、福島第1原発の事故が起こった際にも真っ先に脱出。

世界の気候変動を防ぐためのパリ協定もトランプ大統領になった途端離脱したかと思えば、バイデン氏が大統領になったら"いけしゃあしゃあ"と復帰するような国ですよ?

いくら日米安全保障条約を締結しているからと言って、本当にアメリカが守ってくれる保証はどこにもありません。条約を反故にする言い訳なんて後付けで何とでもなります。

 

それにも関わらず、「尖閣諸島日米安保の対象になることを確認した!」とドヤ顔で報告する政権…本当にこの国は大丈夫なのでしょうか??

大丈夫じゃないよね!きっと!知らんけど!(笑 

人はなぜ独裁者を欲するのか? 「独裁=悪」という思い込みこそが危険という話

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2016年にアメリカ大統領に就任したトランプ氏が政権の座から終わり、バイデン新大統領による政権がスタートします。トランプ政権の評価は様々ですが、ある意味で一つの”功績”として考えても良いのは、「政治体制というものがいかに重要であるか」が、世界中で再認識されたことではないでしょうか。特に民主制度という政治制度がいかに脆弱なものであるかが明らかになった4年間であったと言えると思います。

バイデン政権への移行によって世界の流れがどう変わるかは分かりません。今後いろいろなメディアで様々な識者が予測をし出してくるでしょう。ただ、そういった予測の前に、そもそも私たちが当たり前だと思ってきた民主制度が、どういうシステムであるのかを改めて見つめ直すことは、とても意義があることなのではないかと思います。

そこで今回は、民主主義と対極にある「独裁者」の歴史を追うことで、民主政治がどのように生まれ、どのような問題点を持っているのかを検証した本をご紹介します。

 

その本がこちら。本村凌二 著「独裁の世界史」です。

独裁の世界史 (NHK出版新書)

独裁の世界史 (NHK出版新書)

 

著者紹介

本村凌二 (もとむら りょうじ)。1947年熊本県生まれ。東京大学名誉教授。古代ローマ史研究が専門。

本書では民主政が生まれた古代ローマ古代ギリシャの研究を元にして、独裁政、民主政の歴史を追っていきます。

 

本書のテーマ

御覧の通り、この本のタイトルは「独裁の世界史」。このタイトルから考えると、独裁者の歴史を追うような内容だと思われるのではないでしょうか。実は私もそう思って手に取りました。ただ、どうも本当のテーマはそれではない。

この本は著者の専門分野である古代ローマから現代に至るまでの「独裁者」の歴史を取り上げることで、「民主政」「共和政」という民主主義に根差した政治体制というものが、どのように成立してきたのか。そして、その成立の過程を元にしながら、それぞれの長所と短所、問題点を解説している本です。

 

古代ローマの偉人たちの長ったらしい名前 (ペイシストラトスペリクレスとか)が頻繁に出てくるので、ちゃんと読もうと思うと少し大変かもしれません。しかし、個人名や歴史的出来事の正確性をズバッと無視して、ざっくりと「政治的混乱 → 独裁者の出現 → 民主化」という大枠の流れを読むようにすれば、さらっと面白く読めると思います。

 

では、本書の要点をざっとご説明し、その後本書から私たちが引き出すべき教訓をお話したいと思います。私個人の見解ですけどね!(笑)

独裁者だったが「悪」ではなかった人物

まず、一般的に「独裁」というと非常に悪い政治体制というイメージがあると思います。ドイツのヒトラーとか典型ですね。

そういうイメージからすると意外かもしれませんが、この本では「独裁者=悪」という単純な見解をとっていません。歴史を見る限り必ずしも独裁だから悪いという話ではなく、むしろ政治的な危機や経済的な危機においては、独裁による強固なリーダーシップや迅速な判断が必要になる時もある。

例えば古代アテネにおいて世界で初めて「民主政」という政治体制が花開きました。しかし、古代の歴史学者トゥキュディデスによれば、この時のアテネの繁栄はペリクレスという”独裁者”によって築かれました。そして、この独裁者ペリクレスは次のような演説を残しています。

 

「私たちの政治体制は、私たち独自のもので”民主政治”と呼ばれている。これは私たちが他国に誇るべきものだ。我が国では個人間で争いが起これば法律に基づいて、それぞれに平等な発言が認められている。優れた能力の人であれば、たとえ貧乏であったとしても高い官職を得ることができる。

また、個人がそれぞれの自由な楽しみを行うための行動を制限されることもない。個人が互いの自由を邪魔し合うことも許されない。

われわれは法を敬い、他者から侵害を受けた物を救うための法があるし、法を破る行為を恥じる不文律を大切にする気持ちを私たちは忘れない。」

*1

 

政治的手腕という意味では確かにペリクレスは独裁者であったと言えるかもしれません。しかし、彼の理想は現在と比較しても高い民主的政治であったのは間違いありません。実際彼の治世において、アテネの民主制度はもっとも高度に成長したと言われているようです。

彼の例を見ても分かるように独裁者だからと言って、100%悪だとは言えないのではないでしょうか。むしろ「独裁者」の問題は、独裁という制度そのものではなく、そのリーダーが国民のためを思って正しい行動をとる人物かどうかという”個人の資質”にかかっているという点にあると言えるのだと思います。

独裁の問題点

しかしながら、このような個人の資質に依存した体制というのは、組織の長期的な運営を考えた場合は非常に危険です。いわゆるリスクマネジメントができない、ということですね。特に国家のように永続的な組織で、関わる人間の数が大量に及ぶ場合はなおさらです。独裁者だから危険だというのではなく、独裁という制度は永続的な組織運営としては脆弱であることが問題点である。

もちろん凶悪な独裁者による危険性もあります。しかし、仮にその独裁者の資質が優れたものであっても、その独裁者がいなくなれば反動で政治は不安定化し、その混乱に乗じる形でポピュリズムに走ってしまう危険性があるからです。

そのような独裁の脆弱性を回避するために、古代から様々な国々でいろいろな政治体制が考案されてきた。その一つが「民主政」であり、「共和政」であります。

民主政とは何か

「民主政」はよく聞きますが、「共和政」はあまり聞きなれない方も多いかと思います。「そういえば学校で習った気がするな・・・」程度の方が多いのではないかと。

まずこれらの違いを明確にしておきましょう。

 

民主政も共和政も民主主義に基づいた政治体制という意味では考え方は同じです。ただ、具体的なアプローチが異なります。

直接民主制、間接民主制という言葉を聞いたことがある人は多いかと思いますが、民主政とは正確には「直接民主政」のこと。つまり市民や国民が直接意見を出し合って議論し、意思決定を行う体制のことです。しかし、少し考えればわかるように、このような方法は小さい村落のような少人数であれば可能でしょうが、数百万人とか数千万人とかいった巨大な人口の下では実現できません。

 

社会契約論で有名な哲学者ジャン・ジャック・ルソーは、次のように述べています。

「民主政という言葉の意味を厳密に解釈するならば、真の民主制はこれまで存在しなかったし、これからも決して存在しないだろう。もし神々からなる人民があれば、その人民は民主制をとるであろう。これほど完全な政府は人間には適さない。

つまり直接民主制は人間には不可能だと述べているのです。 

共和政とは何か

民主制すなわち直接民主制が不可能であれば、どうすれば民主主義を達成できるのか?そこで考え出されたのが「共和政」です。

共和政とは直接人民が政治にかかわるのではなく、代表者を選出して、その代表者の集団によって意思決定を行うシステムのこと。いわゆる間接民主制のことです。

つまり、日本人には馴染みのない「共和政」ですが、国民の代表者によって構成される国会で政治決定が行われる日本の政治体制も、実は共和政なのです。

先ほど紹介したルソーも現実的に可能な政治体制として共和制を支持しています。

「法によって治められる国家をその行政の形式がどのようなものであろうとすべて共和政と呼ぶ。なぜなら、その場合においてのみ、公けの利益が支配し、公けの事柄が軽んぜられないから。すべて合法的な政府は、共和的である。

 

民主政と共和政の違い

ここまで述べてきたように、政治システムとしては脆弱な独裁政よりも民主政、共和政の方がより望ましいものです。では、民主政と共和政についてはどちらの方がより望ましいのか?

先ほどご説明したように厳密な意味での民主政、つまり直接民主制は現実的な方法ではありません。この本の著者も共和政を支持する立場をとっています。ただ、その理由が独特で面白い。

著者は民主政と共和政を

・民主政 : 平等な市民が全員参加することを基本に議論で意思決定を行う。代表例が都市国家アテネ

・共和政 : 市民全員ではなく市民を代表する集団によって意思決定を行う。代表例が古代ローマ

として定義しています。

「どちらもいわゆる”直接民主制”ではない」という意味では同じなのですが、古代ローマの方がより身分制度がはっきりしており、エリート層が市民を代表して国家運営を行っていたという形です。

 

ここで非常に興味深いのは、古代ローマの人々が渋々エリート層に支配されていたのではなく、その政治体制を誇りに思って受け入れていたという点です。ここにはローマ人の徹底した現実主義的視点があったのではないでしょうか。

確かに理念的には人間はみな平等。意思決定は全員で行うというのは素晴らしい考えだと思います。

しかし、現実的には人間の能力は平等ではないし、考え方や抱えている歴史的背景も違います。そのような多様な人々が”平等に”政治参加をし、意思決定に関わるというのは現実的には非常に難しい。

古代ローマの人々はちゃんとそのことを理解していた。だからこそ、政治に長けている人が政治を行い、生産に長けている人は生産労働に従事する。労働に従事する人々は政治に長けた人々 (=エリート層) を信じて労働に専念する一方、政治家は労働者の信頼に応えるべく政治に真摯に取り組む。もちろん、その信頼を損ねるようなことがあれば、労働者がエリート層の暴走を防ぐための政治的システムもちゃんと担保しておくことも重要。

著者の分析によると、このようなそれぞれの身分の信頼関係と適度な緊張感こそが、古代ローマを500年もの間存続することができた要因だったと言えます。

 

民主政と共和政という2つの「民主主義的政治システム」。

どちらがより民主主義的か?

どちらのがより平等社会か?

という観念的な問題はさておき、実際問題としてアテネが長く見ても100年、ローマが500年存続した。その点を考えれば、著者は国家の統治システムとしては共和政の方が優れていたのではないかと書いています。

 

民主主義の敵もまた民主主義

しかしながら、アテネが100年程度、ローマは500年程度と期間に違いはあるものの、民主主義に根ざした政治体制を取りながら、独裁あるいは帝政といった権力への集中を招き、結局滅亡してしまったという点では同じです。

では、それぞれの政治体制の何が問題だったのでしょうか?

共通しているポイントは「格差の拡大が生んだ社会の不安定化」です。

 

たとえばアテネでは「ペリクレスの市民権法」という法律の成立がひとつのきっかけでした。

この法律の成立以前は、アテネの母親が外国人であっても父親がアテネ人であれば市民権が与えられました。しかし、法律成立後は両親がともにアテネ人でなければならないということになりました。当時のアテネギリシャ世界の広くから人が集まっていたため、同じ都市国家にいながら市民権を持つ者と持たない物が明確に区別されることになり、「アテネ人 vs 非アテネ人」の対立が先鋭化します。これに対外戦争などが重なり、国が混乱して衰退へとつながっていきました。

 

一方のローマは、その強力な軍事力で対外戦争を推し進めた結果、国内の農地が荒廃。農地から離れ都市に流れ込んだ「無産市民」と、奴隷を使って農地開発を行い富を得た上流貴族の格差が拡大。現代でもそうですが、政治的に多少問題があったとしても経済的に国家が安定していれば何とか安定が保たれるものです。しかし、経済格差が拡大すると、平和時には持ちこたえられた社会的混乱は顕在化し、社会の安定は保てなくなります。

 

民主政アテネにせよ、共和政ローマにせよ、社会格差が拡大したことで社会が不安定化。国民に間に渦巻く不満を吸収し、利用する形でポピュリズム勢力が台頭し国家が崩れていく・・・。結果的に共和政ローマの方が長く続いたものの、「民主主義に基づく政治」は社会格差の拡大によって衰退するのが宿命と言えるのかもしれません。

現代の世界の混乱に通じるものがありますね。

日本も民主政治の崩壊間近?

ここまでご紹介してきたように、この本では古代アテネ古代ローマで民主主義的な政治制度が誕生した過程とその衰亡の歴史を追うことで、その弱点を暴き出しています。そしてその弱点とは格差の拡大のこと。特に経済的な格差の拡大が民主政治の崩壊を導くということです。

これは現代にも通じる話ですね。

よく言われることですが、アメリカでのトランプ現象や英国のEU離脱なども一部の富裕層に富が極端に集まる一方、貧困率が上昇するなど経済的格差が広がったことが大きな原因だと言われています(参考 : https://www.rieti.go.jp/jp/special/af/data/060_inoue.pdf)。

 

一方の日本はどうでしょうか?

たとえば、UNICEFによれば日本の所得格差のレベルは先進国の中でワースト8位。厚生労働省の調査によると、OECD基準による相対的貧困率は15.7%で6人に1人が貧困状態で、単身親世帯で見れば実に 48.3%が貧困層にいるとされています(厚生労働省https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa19/dl/03.pdf)。

もちろん一言で「貧困」と言ってもかなり幅があるので、貧困=飢餓状態というわけではないでしょうが、それでも世界第三位の経済大国・日本でこれだけ格差が広がっているのは異常でしょう。

日本ではまだ米国や欧州ほど顕在化していませんが、このような社会格差が広がっている現状では、「民主政治の崩壊」が日本にも迫っていると言っても過言ではないでしょう。

まとめ:なぜ歴史を学ぶべきか

さて、ではこのような社会格差が広がる状況、民主政治が崩壊しかねい状況で、私たちに何ができるのでしょうか? 

一人の人間にできることは限られているし、その人が置かれている状況によってもできることは様々です。特に政治家と強いコネクションがあるという人でなければ、直接的に何か働きかけるということも難しいでしょう。でも、たった一つだけ誰でもできることがあると思います。それは「知ること」です。

 

この本では過去の人々が独裁者の誕生をいかに防ごうとし、そして防げなかったのかについて考察されています。その経緯や理由はさまざまですが、一つだけ確かなのは「誰も悪の独裁体制を築こうとして独裁者を望んだわけではない」ということです。それぞれの時代で、それぞれの人達が混迷の事態を解決しようとして必死に取り組んできた。

 

後から考えれば「何で民主政を放棄して、こんな独裁者を支持したんだ。馬鹿なんじゃないのか。」と思うかもしれません。しかし、その時代の混乱の渦中にいる人達には、自分たちが一体どのような時代の流れの中にいるのかを感じ取ることは非常に難しいものです。

まるで川の浅瀬で溺れている人がパニックになるようなものです。「足が着く程度の深さ」であることも分からず、死ぬかもしれないと必死にもがいてしまう。過去にさまざまな独裁者が生まれましたが、それはそのような必死の取り組みの結果論でしかないのです。

そのような時代の流れの中で重要なのは、「この流れはマズイ」と気付ける人がどれだけいるか。そして、そのために必要なのが、過去の歴史を把握し、現在の自分たちに置き換えて冷静に考える視点を養ってておくこと・・・すなわち「知ること」なのではないでしょうか。歴史の流れを人間一人のちからで変えることはできないけれど、過去の歴史を知ることは誰でもできる。そして、それこそが現在の自分たちの立ち位置を見つめ直し、あるべき道を考える道標になるのではないでしょうか。

そのきっかけとして、本書は一読の価値があるのではないかと思います。

 

 

という訳で今回ご紹介した本は、本村凌二著「独裁の世界史」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

 

独裁の世界史 (NHK出版新書)

独裁の世界史 (NHK出版新書)

 

*1:※トゥキュディデス「戦史」。原文はちょっと長いので意訳・要約しました。

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