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コロナ不況脱却のために何が必要か? 井上智洋「『現金給付』の経済学」

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先日携帯電話の利用料金に関して、驚きのニュースが報道された。

総務省は毎年、東京やニューヨーク、ロンドン、パリ、デュッセルドルフなど世界の主要6都市で、携帯電話料金を調査しているのだが、東京での価格がロンドンに次ぐ二番目の低価格になったというのだ。

これに関し、武田総務大臣は「携帯事業者間の競争の結果が反映された。日本の料金水準は1年前と比べて大幅に安くなったため、諸外国と比べても遜色なく、条件によっては国際的に安い水準となった」と"評価"した。

 

私は正直このニュースを聞いた時に呆れ果てた。

日本経済は未だデフレ不況から脱却できていない。だからこそ政府もデフレ不況の脱却を目指していたはずだ。

そもそもデフレとは実質賃金が減少している中で物価が下落することで現象だ。これは国民の所得が減る…つまり、国民が貧困化することを意味している。

だからこそ日銀も政府も物価上昇率2%という数値目標を掲げている。当然携帯電話の利用料金もこの物価上昇率へ影響する。それにも関わらず、それが値下がりしたこと…すなわち物価上昇率2%という目標に反する事態が起きていることに対して、"総務大臣が評価する"とは一体どういう了見なのか?

 

このことは、政府がデフレの何が問題なのか全く理解していないということの証左だ。もちろん、国民の賃金が上昇している局面であれば、何も問題ないだろう。だが、今は明らかに国民の賃金が減少するデフレ局面なのだ。

その状況で物価が下がるということは、結局回り回って国民の所得や国内経済がどんどん小さくなっていくことを意味する。それが「長期的な視点で考えた国家経済のビジョン」なのだが、どうやら政府はそのような長期的視野は全く持っておらず、まるで一消費者のように

「物価が下がったら物が買いやすくなるんだから何が悪いの?」

という短絡的な視点しか持っていないことが、このコメントひとつ取っても明らかだ。

 

では、この携帯電話料金のような『事業者間の競争』ではなく、政府はどのような政策を行うべきなのだろうか?

それを考える上で、参考になるのが今回紹介する

井上智洋「『現金給付』の経済学」

だ。

 

著者紹介

井上智洋 (いのうえ ともひろ)。駒沢大学経済学部准教授。経済学者。IT企業勤務を歴て現職。専門はマクロ経済学貨幣経済理論、成長理論。著書に「人工知能と経済の未来」など多数。

経済学に明るくない一般の人たちにも分かりやすく国民経済の問題を解説する。経済学界隈で最近世界を巻き込んだ論争になっている現代貨幣理論 (MMT)に関して、中立的な立場から非常に分かりやすく解き明かしており、Youtubeでの活動、国会審議に参考人として出席するなど、幅広い活動を行っている。

 

バラマキこそが最適解

今回の携帯電話料金に限らず、長年日本を苦しめているデフレ不況だが、その最大の原因は「お金が不足している」ことにある。そのように言われると、経済ニュースに詳しい人であれば「日銀はここ数年異次元の金融緩和をしてジャブジャブに供給している。お金が足りないなどということはないはずだ。」と言われるかもしれない。

残念ながらこれは正しい指摘ではない。

このことを理解するためには、「貨幣とは何ぞや?」について少し専門的な知識が必要になる。詳細は本書に譲るとして、ここではざっくり簡単に説明しよう。

二種類のお金

一般にはほとんど認識されていないが、お金には実は二種類ある。「マネタリーベース」と「マネーストック」だ。

マネーストックとは、企業や個人と言った普通の民間主体が使うお金であり、「預金」と「現金」のこと。普通私達が「お金」と聞いてイメージするのが、このマネーストックのことだ。

一方マネタリーベースとは、銀行同士の取引に使う特殊なお金のことで、「預金準備」と「現金」から成り立っている。この預金準備とは民間銀行が中央銀行(日銀のこと)に預けているお金のことだ。

※マネタリーベースのほとんどが「預金準備」であり、「現金」はほぼ無視して良い割合でしかない。

日銀が供給しているのはどっち?

日銀の異次元緩和により大量に供給されているお金というのは、実はこの預金準備のことなのだ。そして、詳しい解説はここでは省くが、この預金準備というのは通常の民間企業はアクセスできない仕組みになっている。したがって、この預金準備がどれだけ異次元緩和によって膨らんだとしても、誰も入れない金庫にお金が積み上がっているだけなのであって、私達国民の下には一切流れ込んで来ない。

「日銀の異次元金融緩和」などと騒いでも、私達の給料が全く増えないのはこのせいだ。マネタリーベースがどれだけ増えても、私達国民には基本的に何も関係ないのである。

政府がお金を使わないとお金は増えない?

しかし、このマネタリーベースを国民の生活に流れ込ませる方法がある。

実はそれは「政府がお金を使うこと」なのだ。

マネタリーベースは中央銀行と民間銀行の間で使われる特殊なお金だと書いたが、実は日本政府もこの口座にアクセスができる。逆に日本政府は民間銀行に口座を持てない仕組みになっているため、日銀の当座預金にしかお金を持てないのだ。

したがって、実はジャブジャブに貯められているマネタリーベースのお金を国民の下に送り込むためには、政府が何かしら公共事業を行い、マネタリーベースのお金を使ってその支払いを行うしかない。

政府がお金を使い、その支払が「日銀 → 民間銀行」と行われることで、初めて”ジャブジャブ”に溜まったマネタリーベースが国民に流れる仕組みになっているのだ。

バラマキこそが最適解

私達は普段政府がお金を使うことを嫌う傾向があるが、これは上記のようなお金の仕組みを理解していないから。これを理解すれば小学生でも分かる話なのだが、デフレ不況というお金が不足している状況において、大量に日銀が刷ったお金を国民に流し込むためには、政府がどんどん事業を行いお金を使うしかない。

本書の帯に書いてある通り「『バラマキ』こそが最適解!」。これが真実だ。

このマネタリーベース、マネーストックという貨幣のシステムに関しては、少し込み入った説明が必要になるためここでは割愛する。興味がある人は・・・・というか、一人でも多くの人に本書を読んで、この事実を知ってほしい。

一般的な貨幣観ではとても受け入れられないが、井上氏による丁寧な解説をニュートラルな気持ちで読んで頂ければ、必ず理解できるはずだ。

ベーシックインカムの実現

この前提に立てば、デフレを脱却するために必要なことは「政府が日銀に持つお金を国民に流すことだ」ということが理解できる。そのための具体的な政策はいくつもあるだろう。

いわゆる昔ながらの公共事業もその一つだし、教育や科学技術に関する投資、あるいは公務員の数を増やして”公務員給与”という政府の支出を増やすことも方策の一つだ。

その中で著者がもっとも強く提唱するのが、ベーシックインカム・・・つまり国民のすべてに生活に必要な一定程度のお金を供給する方法だ。ベーシックインカムには賛否両論あり、賛成派の中でも様々な議論や方法論がある。

ベーシックインカム」と十把一絡げで是非を論じることは難しい。

特に議論の的となるのは財源の問題だ。

これを税金とするのか、政府の国債とするのかでも賛否が変わってくるが、著者は少なくともデフレから完全に脱却するまでは国債で賄うのが望ましいという立場だ。

その理由としては、国民の賃金が増えないデフレ期、特に現在のコロナ禍のような異常事態においては、税収を増やすことはほぼ不可能であることが挙げられる。現下の状況では一刻も早い現金支給が求められているため、税金の制度を改めて議論するような時間的猶予はない。

もちろん、国債を財源にすることに関しても議論はあるだろう。しかし、日銀の異次元緩和により数百兆円が供給されて、巨額のマネタリーベースが積み上がっているのも事実。スピードを重視するのであれば、それを活用することを前提にいち早く動くことが重要だ。何しろこのコロナ禍で明日の生活も危うい人たちが確実に増えているのが現実であり、躊躇しているような時間はない。

恒久的な現金給付制度の即座実現とはいかなくとも、昨年行われた国民一人当たり10万円の現金給付のような手法もある。これもまたベーシックインカムの一形態であり、同様の手法であれば素早い実現も可能だろう。

 

著者が述べるような恒久的現金給付としてのベーシックインカムが最良の手であるかどうかはじっくり議論する必要はある。しかし、少なくともデフレ不況から脱しきれない状況で、総務大臣が「値下げ」を喜んでいるような異常自体は即座に解消すべきだ。

そのような議論を盛り上げ、私達国民の生活に本当に必要な政策がどのような物かを考える上で、本書は非常に重要な示唆を示してくれると思う。

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちらの本

井上智洋「『現金給付』の経済学」

でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

ヨーロッパの覇権を確立した3つの革命 玉木俊明 著 『16世紀「世界史」のはじまり』

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「先進国と言えばどこの国か?」と聞いて思いつく国と言えばどこだろうか?

アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス・・・中国ももはや先進国の一つだろうか。

先進国にはいろいろな定義があるけれども、欧州、特に西ヨーロッパの国々といえばどこも先進国の一つだと言っても良いだろう。それほど欧州と言えば世界を牽引する先進国の集まりだというイメージが強い。

だが、その欧州が数百年前までは後進国であったと聞いたら信じられるだろうか?

実は16世紀なかばくらいまでは先進国と言えば、中国や中東であり欧州はむしろ後進国だったのだ。たとえば中国は、紙、火薬、羅針盤、陶磁器の世界最大の産出国だったし、イランやインドと言った中東地域も綿花、綿織物などの産地であり、欧州は輸入する側だった。シルクロード (絹の道) という言葉を聞いたことがある人も多いだろう。

このように、中国や中東が優れた工芸品や産出品を持っていたのに対し、欧州にはアジアに輸出できるような物はほとんどなく、文化的にも後進国だった。

その後進国の集まりであるヨーロッパが、なぜ現在のような”先進国”の立場として、権威を振るうようになったのか? 

その原因をさかのぼり、欧州の力の源泉の秘密を探るのが今回ご紹介するこちらの本

玉木俊明著「16世紀『世界史』のはじまり」

だ。

 

欧州を変革した3つの革命

意外かもしれないが、現在の私たちが恩恵を預かっている近代科学は欧州で一から発展したわけではない。

たしかに近代科学の端緒となった科学は、アリストテレスに代表される古代ギリシャの哲学者から生まれている。しかし、それらは古代ギリシャの滅亡とともにイスラム社会に伝わり、そこで独自の発展を遂げた。数学、自然科学、天文学、地理学などのさまざまな分野において、科学的知見はイスラムで発展したものだ。

また、中国が果たした役割も忘れてはならない。製紙法、羅針盤、火器の発明など近代科学の元となった発明は中国に起源を持つものが多い。

では、なぜ欧州がそれらの地域に取って代わることができたのだろうか?

著者によれば、それは大きく次の3つの革命が影響している。

すなわち

・宗教革命

軍事革命

・科学革命

だ。

欧州を変えた3つの革命

欧州を変えたこの3つの革命について簡単に見てみよう。

 

まず宗教革命。この名は、「ルター」や「プロテスタント」という言葉とともに広く知られている。

かつてはキリスト教と言えばカトリック教会のことだったが、どの組織にでもありがちな汚職や腐敗が進行したため、ルターやカルヴァンに代表される人物がカトリック系に「プロテスト (=抗議)」し、組織を改めようとしたのが始まりだ。

次に科学革命とは、コペルニクスガリレオ・ガリレイニュートンらによって新しい物理学上の発見がなされ、科学研究の方法に大きな変革が生まれたこと。自然や宇宙を数学的に理解し、解明することができるようになったことで、人間の生活様式を大きく変えることになった。ここで生まれた科学的知見により、18世紀に欧州で産業革命が起こったことも重要だ。

そして、最後に軍事革命。それまで馬に乗って剣を交える騎馬戦が主流だった戦争に、火縄銃や大砲などが用いられるようになったことで、それを使用する歩兵が兵力の中心になったこと。そして、それを活用するために兵隊が大規模化し、大量の人的・物的資源が動員されるようになったことを言う。

著者によれば、これらの革命が16世紀に集中して発生したことが、後進国だった欧州が世界的な影響力を持つようになった原因だという。

では、これらの3つがどのように欧州の覇権獲得に影響を与えたのだろうか?

 3つの革命をつないだ「航海技術」

欧州覇権への影響を紐解く鍵となるのが航海技術。欧州を覇権を作り出したのは他でもない、宗教革命、軍事革命、科学革命という3つの革命を航海によって繋ぎ合わせたことだった。

 

最初に述べた通り、16世紀までは欧州は中国や中東に比べて後進国であり、それらの地域に輸出できるような特産品は何もなかった。しかし、科学革命が生んだ自然に対する新たな知見や軍事革命による軍事技術を得たことで、それらを他国と交易するための輸出品として育てることができた。

とはいえ、輸出品があるだけでは遠い諸外国と交易をすることはできない。交易とは距離的に隔たりのある地域同士が、物やサービスを融通し合うことによって成り立つ。したがって、いくら科学的知見という優秀な特産品があったとしても、それを運ぶことができなくては交易は成り立たない。

この欧州による外国との交易を物理的に可能にしたのが、科学革命によって進歩した天文学、物理学をベースにした航海技術だった。1492年にコロンブスが新世界を「発見」し、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に到達したことによって、欧州の国々は世界中に交易ネットワークを広げることが可能になった。

そして、欧州の国々が交易に使用した知見や技術とは、基本的に人の頭の中に蓄えられている。つまり、科学的知見という特産品を持った”人”が世界中を航海することで、欧州の”輸出”は活発になったのだ。このことは宗教改革と密接な関係を持っている。

なぜなら、カトリック教会は知識や技術というソフトパワーを持った教徒を世界に派遣することによって、カトリックの布教活動とグローバルな交易の両立を実現することが可能だったからだ。

すなわち、”航海術による交易”という点によって、宗教改革軍事革命、科学革命という3つの革命が欧州に巨大な繁栄をもたらしたのだ。ここにこそ、その後欧州の国々が世界の覇権を担っていく源泉がある。

 

 

まとめ

世界の覇権争いと言えば、一般的には「軍事力」による争いの結果であるように思われがちだ。

だが、本書で解説される欧州による覇権確立のあらましを知ると、実は軍事力が覇権のすべてではないことが分かる。欧州はたしかに強大な軍事力の下に世界を支配した。しかし、それと同時に科学的知識や交易システム、航海術といったソフトパワーの力によってその影響力を拡大していったと言える。

この視点は現在の覇権争いである米中戦争について考える上でも、私たち日本が世界での影響力を高めていく上でも非常に重要な示唆を与えてくれるのではないだろうか。

 

 

 

という訳で今回紹介したのはこちら。

玉木俊明 著 『16世紀「世界史」のはじまり』でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

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イノベーションとは合理性からの脱却である。安藤昭子著「才能をひらく編集工学」

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「ここ数年の変化は歴史的に見ても、千年に一度起こるかどうかというほどの大変動ですよ。」

以前、阿川佐和子が司会を務める「サワコの朝」という番組で、歴史学者磯田道史氏がゲストに招かれた際に発した言葉だ。

世の中の流れとは常に変化するものだが、ここ数年の変化の度合いは歴史上でもまれだろう。新型コロナの感染拡大だけの話ではない。その以前から、国際的な政治情勢、世界経済、テクノロジーといった様々な分野で非常に大きな地殻変動が続いている。

そのような先が見通せない不安定な社会で求められるのが、既存のシステムの壁を突破する探究力や、事態を急展開させるアイディア。いわゆる”イノベーション”を引き起こすクリエイティブな思考だ。

ただ、イノベーションやクリエイティビティというと、どこか”才能のある人が生まれつき持っている特殊能力”、あるいは”訓練で身につけた能力”のように思われがちだ。自分には関係ない話だと思う人が多いだろう。

ただ、もし「実はそうではない、そういった才能は誰にでも備わっているのだ」としたらどうだろうか?

 

今回紹介する本は、イノベーションに必要な"情報を読み解く力"を解明し、私たちの中に眠るクリエイティビティを揺り起こすための思考方法を説く力作。

 

安藤昭子 著「才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10の思考法」だ。

 今回はこの本が説く編集工学の一端を紹介するとともに、クリエイティビティの覚醒を実は近代合理主義が阻害しているという少し哲学的な話もしてみたい。

 

編集工学とは何か

編集工学・・・耳慣れない言葉だが、これは松岡正剛 (まつおか せいごう)という著述家が生み出した情報編集技術のことだ。

松岡自身の言葉を借りれば「情報を工学的な組み立てを借りながら編集すること、それが編集工学だ。」ということになる。

注意が必要なのはこの場合の「情報」や「編集」の言葉の広さだ。これらの言葉の意味を理解することは、本書を読み進める上でとても重要なため、以下でザッと紹介しておきたい。

<編集工学が扱う情報の範囲>

まず、編集工学における「情報」とはニュースで取り上げられるような新しい出来事や、物事に関する知識だけにとどまらない。私たちを取り巻く環境のすべて、スマホや車のような生産物だけでなく、石ころや草花のような自然もまた何かしらの意味を持っている。編集工学が対象とする情報とは、私たちを取り囲む森羅万象すべてのことだ。

<編集工学における編集の意味>

また、編集という言葉も、一般的に考えられている、雑誌やWebサイトを作るような狭義の編集に留まらない。

先ほどの私たちの周りにある森羅万象すべての「情報」のそれぞれをつなぐ”関係性”を見出すこと。そして、それらの情報の組み合わせを変えることで新しい価値を生み出すこと。これが本書における「編集」だ。

<工学とは何か?>

そしてもう一つの「工学」。これは本書の中では明確に定義づけされていない。したがって、本書全体からの推測になるが、情報を読みといて編集を行う際に、分析対象を細かく切り分け、構造を明らかにするための手法のことを意味しているようだ。

たとえば「テレワークとは何か?」という設問で考えてみよう。

恐らく「在宅勤務」「リモートワーク」といった言葉が思い浮かぶと思うが、このテレワークという言葉を「tele =離れて」「work=働く」と考えてみる。そうすると「職人の分業体制」もテレワーク (離れて働くこと)であるし、役者やスポーツ選手の「自主練習」もテレワークだと言える。つまり、テレワークという言葉を「tele」「work」という2つの語からなっている構造だと理解すれば、様々な解釈が生まれることになるのだ。

このように分析対象の構造を分解することによって、新しい解釈を生み出そうとする行為。これを工学的アプローチだと本書では捉えている (ようだ)。この利点は、ある対象を分析するときに、「空気を読む」「風を読む」のような動物的感覚によらずに、誰にでも情報の関係性を把握できる技術体系として多くの人が共有できる点にあると思う。

 

以上を踏まえて、編集工学が何であるかを改めて説明すると次のようになるだろう。

すなわち、編集工学とは私たちを取り巻く全ての事象を誰にでも分析できるような分かりやすい構造に解きほぐすこと。そして、それらを組み合わせることで新しい価値を生み出せるようにするための技術ということだ。

編集工学の肝「3A」

本書を理解する上で中心となる概念に「3A」というものがある。3Aとは、3つのAのことで、

・アナロジー (analogy)

アブダクション (abduction)

アフォーダンス (affordance)

という3つの言葉の頭文字を取ったものだ。以下、簡単にこれらを説明しよう。

<アナロジーとは>

まず、アナロジーとは「類推すること」。「似ている(類似)」ものを「推し量る (推論)」ことだ。一言で言えば、何か新しい概念や出来事に出くわしたときに「何かに別のことにたとえて考えること」と言っても良いだろう。誰かに説明を求められた時に「まぁ、これはつまりXXXXみたいなもんですよ」と説明するようなものだ。この「XXXみたいなもの」という”たとえ”を連想していき、

<アブダクションとは>

次にアブダクションとは「ある問題に対して、仮説を立て、それを元に推論すること」。かのアインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言ったそうだが、目に見えるもの、経験したものを追いかけているだけでは何も引き出すことができない。

自分が遭遇したものに対して、当てずっぽうでも良いから想像力を働かせて仮説を立てる。それによって新しい発見を生み出す。それがアブダクションだ。

<アフォーダンスとは>

そして、最後のアフォーダンス。これは英語の「afford (与える)」という言葉を名詞化したものだ。これは適切な日本語が見当たらないので理解するのが難しい概念だが、「環境が物事に与え、提供している意味や価値」のこと。本書に書かれている例がわかりやすいので、少し長いが引用しよう。

たとえば、ある3人家族が山登りに行ったとする。

しばらく歩いていると道端に人の腰の高さくらいの岩があるのを見つける。

父親はそこに「一休みしよう」と腰をかけ、母親は岩の平らなところに弁当を広げ、子供は岩によじ登ったりして遊び始める。

この場合、たった一つの岩が多くの意味を持っていることが分かる。父親にとっては椅子であり、母親にとってはテーブルであり、子供にとっては遊び道具だ。

つまり一つの物事でもそれが置かれている環境や、それに接する人の解釈によって、無限の意味を持ちうる (=意味をアフォードしている)ということだ。

 

これら「アナロジー」「アブダクション」そして「アフォーダンス」という3つの概念が編集工学において非常に重要だ。

なぜなら、世界のあらゆる物事が持つ意味(アフォーダンス)を環境や状況といった関係性から解釈し、それをアナロジーアブダクション(推論)を使って他の物事が持つ意味や関係性を捉え直すこと。これこそが「編集」だからだ。

本書の後半では「具体的にどのように情報を編集するのか。」「新しい価値を生み出すための思考法とはどんなものか?」が数多く紹介されている。そのすべてがこの3つの概念をベースとして展開されている。拙い説明で恐縮だったが、上記の3Aに関して少しでも興味を持たれたならば、ぜひ本書を手にとって頂きたい。今までとは全く違う世界の見方を知ることができるはずだ。

 

編集工学とは関係性を見出すための技術

このように編集工学の特徴とは、あらゆる情報を分析する際に、物事それ自体ではなく、それが置かれた環境や他の物事との関係性に目を向けるところだ。

私たちは特定の物事を考える時には、その物自体を中心に考える癖がある。しかし、その物事自体は実に多様な意味(アフォーダンス)を含んでいるため、結局物事分析とはその環境と関係性を見つめることに他ならないのだ。

 

ただ、このような関係性に着目して分析するという手法編集工学の特権ではない。たとえば20世紀の経済学者にジョセフ・アロイス・シュンペーターがいる。イノベーションという概念の重要性を説いた人物であり、本書でも彼が提唱したイノベーションの重要性が紹介されているのだが、彼もまた物事の関係性という観点を重視した。

イノベーションにおける物事の関係性の役割を考えるために、この点を少し掘り下げたい。

イノベーションとは"編集"のこと

シュンペーターの提唱したイノベーションという言葉は、日本語で技術革新と訳されることが多い。しかし、彼が使っている意味は少し異なる。

シュンペーターは『経済発展の理論』の中で「新結合」という言葉を使って、この概念の重要性を説いた。その中で彼は企業が生産を拡大するために、生産方法や組織といった生産要素の組合せを組み替えたり、新たな生産要素を導入することで生産力を拡大することをイノベーションと呼んでいる。

すなわちイノベーションとは、一般に思われているような革新的なアイデアをゼロから生み出すようなものではなく、既存の要素を組み合わせを変化させることで新しい価値を生み出すことなのだ。そう、今回紹介している本書の中でいわれている、”既存の情報を編集する(組み合わせる)こと”がイノベーションだとシュンペーターは言っているのだ。

そして、イノベーションのためにシュンペーターが重視したのが「ヴィジョン」であった。

イノベーションに必要な”ヴィジョン”

ヴィジョンという言葉は、世界の全体像や未来など、本来見えるはずのないものを見通す力のことであり、あえて言うならば洞察力、直感力、想像力といった言葉が当てはまるだろう。一見すると科学的な根拠のない、非合理的な、神がかった力のように思える物だが、シュンペーターは”科学”こそがこのヴィジョンの力に支えられていると考えていた。

たとえば何かの科学的な研究を行うとしよう。

この世界には無数の事柄が存在し、それらをすべて網羅的に分析することなどは人間にはできない。そこで科学者は無数の事柄の中から分析対象を選び出し、それに焦点を絞って研究を始めることになる。

すなわち、直感力などとは何も関係ないような科学的研究においても、まず最初に分析対象を選ぶ時点では、非科学的な直感にしたがって決定を行うのである。この直感に対してシュンペーターはヴィジョンという名を与え、その重要性に焦点を当てた。

つまり、科学という非常に合理的な学術体系においてさえ、実はその出発点にはヴィジョンという非科学的なものを宿しているのだ。

イノベーションは近代合理主義の否定から始まる

さて、ここまで見たように、シュンペーターの議論にならえば、科学さえもその出発点にはヴィジョンという非科学的なものを宿していることになる。

そして、現代の私たちの生活のほとんどはこの”科学的なるもの”に支えられている。

ここから分かるのは、科学によって進歩してきたと思われる私たちの生活は、実は非科学的なによってもたらされているということだ。これはある意味近代以来の合理主義が必ずしもこの世界のすべてを説明しうるものではない、ということを意味する。

 

実際、本書においても編集工学という考え方がいわゆる「近代合理主義」への批判、あるいは距離を置こうとする思想が見え隠れしている。

たとえば第二章「世界と自分を結び直すアプローチ」において、つぎのような記述がある。

近代以降の伝統的な知覚モデルでは、「意味」というものは人間の頭の中で完全に処理されているとされてきました。視覚、聴覚、触覚等の感覚器からの入力情報を脳が処理して「意味」にすると考えられてきたのです。

その見方のルーツは17世紀の哲学者ルネ・デカルトにあります。「我思う故に我あり」で知られるデカルトは、精神と身体を異なる実体として捉える「心身二元論」を説きました。客観的な「事実」の世界と人間が生きる「価値」の世界を明確に分離したのです。現代の医学やテクノロジーは、このデカルト以降の二元論を基軸にした西洋的世界観を規範としています。知性を身体や環境から切り離し、知識や論理の力で自然を含む世界を認識しコントロールしようという見方です。

 と述べている。

また、シュンペーターもヴィジョンに関する議論において、カール・マンハイムという社会学者の研究を参照しているのだが、マンハイム社会学は次のような哲学を基礎としていた。

それは

・人間とは集団生活の営みの中で生きるものであるという存在論

・人間はその集団生活を通じてのみ世界を知ることができるという認識論

だ。これはまさに主観世界と客観世界を分離し、個人が抽象的な思索を通じて客観世界を認識するというデカルト以来の近代合理主義を否定するものだ。

ヴィジョンを磨くための編集工学

社会が安定的に成長してきたこれまでの世界においては、たしかに近代合理主義的な判断や思考方法が機能してきたのは間違いない。ファクトやエビデンスに基づく論理的な思考こそが重要であると言われてきた。

しかし、これからの社会ではそれが逆転するのかもしれない。

むしろ、ここ数年のように社会が不安定化し、先行きが不透明な時代においては、必ずしも近代合理主義的な方法では物事を解決するイノベーションを見出すことができないという可能性がある。

これからの不透明な時代を生き抜くためには、合理的で科学的なロジカル思考ではなく、先を見通すヴィジョンを持つことが私たち一人ひとりに求められるのかもしれない。そのヴィジョンを身につけるために、この編集工学というアプローチは非常に強力な武器になるのは間違いないだろう。

 

 

 

という訳で今回ご紹介した本はこちら

安藤昭子著「才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10の思考法」

でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

 

高橋真矢 著「資本主義から脱却せよ」。未来のために私たちが取り戻すべきものとは何か。

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早速ですが今回ご紹介する本はこちら。

高橋真矢・井上智洋・松尾匡の3名による共著「資本主義から脱却せよ」。

最近、資本主義批判の本がよく出版されており、若干”流行り”のような感じがある。この本もてっきりその流れの本かと思ったものの、著者に私が好きな井上智洋という経済学者が名前を連ねていたため手に取った次第。

さて、肝心の中身はどうだったのか?

 

正直、初見の印象はかなり悪い 

内容の紹介の前に言いたいことが一つ。

それは「編集力の無さによって、ここまで駄作になる本も珍しい」ということだ。

誤解がないように言っておきたいのだが、内容はかなり面白い。

貨幣という一つのテーマを切り口に、芋づる的にさまざまな問題を論評していくさま様は、自分が物事を考える上でも非常に示唆に富んでいる。

また、三名の独自の視点で語ることで、よりテーマを多角的に掘り下げようとする試みも面白い。
だが、いかんせん一つの本としての構成が悪すぎて、内容が非常に理解しづらい。

それぞれの論説はわかりやすく丁寧なのだが、構成が悪いために話があちこちに飛びすぎており、論旨が定まっていない(ように読める)のだ。

本当に「編集者出てこい!!」と怒鳴りつけたいほどだ。


この点についてはまた後で述べたいと思うが、著者三名の論説も紹介しつつ、この本が読みやすくなる読み方を提案したいと思う。

本書のテーマ

この本を読みやすくするために、本書のテーマとは何かを確認しておきたい。

一般的には書籍のタイトルなのだが、残念ながらそれも違う。率直に言ってタイトルの「資本主義から脱却せよ」は本書のテーマとはかなり食い違っていると思う。

実は本書においては副題の方が圧倒的にテーマにかなっているのだ。その副題とは「貨幣を人々の手に取り戻せ」である。

これは完全に邪推だが、編集者はこのタイトルでは売れないと思ったのではないだろうか?実際よほど経済と社会の問題に関心がある人でなければ、「貨幣を取り戻せ」などと言われても、全くピンと来ないだろう。

 
一方、昨今はなにかと資本主義批判が流行だ。

斉藤幸平の「人新世の資本論」にせよ、渋沢栄一の「論語と算盤」にせよ、現代の資本主義のあり方は間違っており、新しい資本主義のあり方を模索すべきだという論調がさまざまな雑誌やビジネス記事で見受けられる。

その流行に乗っかる形で「資本主義からの脱却」などという眉唾もののタイトルを選んだのではないだろうか。

そう思わざるを得ないほど、この本は”資本主義からの脱却”というタイトルではかなり語弊があると言って良い。

この辺りのセンスのなさが、本書の内容の分かりづらさにもつながっていると思われる。中身自体はとても良いのに、非常にもったいない・・・。

本書の概略

構成が非常に分かりづらいものの、実は一旦中身さえ理解してしまえば、この本の内容は非常にシンプルだ。すなわち

「”失われた30年”の間、多くの国民はとても勤勉に働いてきたのに、まったく生活は豊かにならない。その理由はよく言われるような”日本人の生産性が低いから”ではない。お金つまり貨幣を国内で循環させるシステムに問題があるからだ。

このシステムの問題を改善することで、私たちは”一所懸命に働けば豊かになれる”という当たり前のストーリーを取り戻すことができるのだ。」

というものだ。

そして、この「貨幣を国内で循環させるシステムの問題点」を明らかにするために

 

1)貨幣が発行され、流通するシステムを解説

2)その問題点を提起

3)問題点を解決するための方策を提示

 

という形で議論が展開されていく。

上記1~3に関して、3名の著者がそれぞれの専門分野において解説を行うのだが、内容にはレベルの差があることは注意していただきたい。

メインの著者というか、今回の著作の呼びかけ人である高橋真矢氏は学者ではなく、不安定ワーカー (執筆段階では失業者)という立場もあり、生活に苦しむ一般人の視点から解説を行う。

井上智洋氏は経済学者の立場から、少し技術的な貨幣システムの在り方を理論的に紹介しつつ、今後期待される貨幣システムの在り方を提案する。

そして、松尾匡氏は経済学者の立場でありながらも、どちらかというと貨幣と国民の関係性を思想的な面から解説する。

という内容になっている。

 

この次元の違う3名の論説がバラバラと展開されているため、一章から順番に読んでいくとかなり混乱する。したがって、お勧めな読み方としては、自分の興味や経済学への知識に合わせて、3名それぞれの論説だけ読んでいくのが良いかと思う。

 

たとえば、経済学に関してある程度知識がある方なら、井上氏や松尾氏のセクションをいきなり読んでも楽しめるかもしれない。

逆に経済学には馴染みがなく、「経済ってお金儲けのことでしょ?」くらいの感覚の方であれば、高橋氏の”生活になじんだ”議論から読み進めた方が楽しめるだろう。

特に高橋氏が解説する貨幣発行システムの説明に関しては、恐らく国民の99%が知らないような内容であるため、目から鱗が落ちるような感覚を味わえるはずだ。

お金を生み出す万年筆の話

本書を紹介されている中でもっとも重要な概念が信用創造という貨幣発行システムだ。これさえ分かれば本書の内容の80%は理解できるし、現在の日本の経済問題はほとんど理解できてしまう。

信用創造とは誤解を恐れずに言えば「お金が生まれて、国内に循環するプロセス」を描いた概念だ。本書に詳しく解説がなされているが、私のブログでも以前紹介したことがある。

多くの人は「お金は政府が造幣局で作っているものだ」と思っている。

だが、それは半分正解で半分間違いだ。

確かに貨幣を発行する権限は政府あるいは中央銀行にのみ与えられている。しかし、貨幣にはいわゆる現金通貨の他に、銀行預金も含まれており、国内で出回っている貨幣のほとんどはこの銀行預金なのだ。

 

また、この銀行預金とは通常「国民が稼いだお金を銀行に預けている」と思われがちだが、これも半分正解で半分間違いだ。

確かに私たちの”貯金”も銀行預金に含まれるのだが、実はほとんどが「銀行がどこかの事業主に貸しつける時」、つまりその事業主を”信用”して融資を行う時に「事業主の口座に”融資額〇〇万円”」と書き込まれるのである。

お金はどこかから融通して貸し付けるのではない。

むしろ事実は逆で「銀行が誰かにお金を貸しつける時に、銀行口座にポンっと生まれるもの」なのだ。

これは普通の感覚では信じがたいことだが、日々現実に行われていることであり経済学的には当たり前のことなのである。

 

これは実は日本政府がお金を発行する時も同じことが起きている。

日本銀行が日本政府に対してお金を貸しつける時に、日本政府の口座にお金がポンっと生まれる。当然日本政府はこのお金を返済しなければならないが、日本政府には通貨を発行する権限があるため、いくらでも返済することができる。

たがって、この信用創造という概念を理解しておくと、日本政府が財政破綻するなどと言うことは、どう考えてもあり得ないことが分かる。逆に言えば、信用創造を理解していないから、”日本が財政破綻するという嘘”にいつまでも騙され続けるのである。

 

本書を読み、信用創造のプロセスを理解した時、私たちの生活がなぜいつまでも豊かにならないのか、その理由がきっと分かる。そして、今私たちが何を議論すべきかもわかるだろう。

貨幣という物の本来の役割を改めて認識することで、私たちの生活を豊かにする貨幣とはどうあるべきかについて、より深い知見を手にすることができると思う。

内容構成が稚拙なため分かりづらい部分が多々あるものの、内容としては非常に含蓄が深い。ぜひ一人でも多くの人に、本書を手に取って欲しいと願う。 

 

という訳で今回ご紹介したのはこちらの本

高橋真矢・井上智洋・松尾匡 著「資本主義から脱却せよ」

でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m 

 

映画「るろうに剣心 The Final」。ファン歴30年が語る感想と次作への期待。

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さて、ついに映画「るろうに剣心 The Final」を観てきました。

るろうに剣心シリーズの最後を締めくくり、シリーズ最大の謎に迫る今作。

ファン歴25年以上を誇る”るろ剣フリーク”の私の目にどのように映ったのか?

ちなみに、下記投稿で「るろうに剣心の魅力」を映画鑑賞前に語りました。よろしければこちらも。

率直な意見

まず今作を観て抱いた最初の感想は「評価が難しい…」。それが正直な感想だった。

アクションは素晴らしかった。このるろ剣のアクションは一作目から素晴らしく、"魅せる殺陣"という意味では日本映画でも屈指なのは間違いない。

一方、ストーリー面では手放しで評価できないところがある。ただ、これは「評価できない=できが悪かった」という意味ではない。文字通り評価するのが難しいということだ。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、その原因はThe FinalとThe Begginingという2作品に分割したことにある。今作は次作の「The Beggining」と複雑に関係し合う作品となっている。そのため「The Beggining」の内容次第で今作の評価が変わってしまうのだ(漫画版ではこれをうまくミックスして展開していた)。

したがって、この切り分け方が成功だったのかどうかは”The Beggining”次第ということにならざるを得ない。


そこで今回の投稿では”次作「The Begginig」の展開をできる限り好意的に予測した前提”の上で、今作「The Final」の感想を述べてみたいと思う。次作への期待をこめて!

注意点: 漫画の再現性ついて

感想を書く前に最初に断っておきたいのは、私は原作をどれくらい忠実に再現できるか?を重視している訳ではないということだ。

以前の投稿でも書いたのだが、私は連載開始前の読切漫画時代からの、るろうに剣心のファンだ。"るろ剣愛"ではそんじょそこらのファンと一緒にしてもらっては困る(笑)。とは言え、"原作の再現性"でもってこの映画を評価するつもりはさらさら無い。

そもそも

「漫画だからできる」

「漫画だから面白い演出やストーリーがある」

のであって、それをそのままトレースすることが実写映画の評価を左右するは思っていない(あくまで「原作への愛と敬意があれば」の話だが…)。原作をそのままトレースした映像作品にするのであれば、アニメのクオリティを上げれば良いだけであって、実写映画化する意味はない。

問題は、映画版るろうに剣心が原作に込められたどのようなテーマに焦点を当てたのか。そして、それが映画ならではの方法でちゃんと表現できたのか?という点だ。


アクション映画としては120点

ます、「映画るろうに剣心」が世間で高く評価されている理由の一つは、そのアクション映画としての完成度の高さだ。

主人公・緋村剣心を演じる佐藤健の身体能力の高さを最大限に活かし、第一作から日本映画でも類を見ない高レベルのアクション性を実現。もちろんワイヤーを使った演出はあるものの、壁を走る演出や高速の殺陣などはそういった細工なしの撮影であり、まさに息を持つかせぬ緊迫感溢れるアクション劇だ。その歴代のるろうに剣心映画の中でも、今回は最高の出来だったと言って良いだろう。

今までの緋村剣心を演じる佐藤健の"速さ"はさらにレベルアップ。

さらに、今回の敵役である雪代縁を演じる新田真剣佑の"力"の相乗作用で、剣のぶつかり合いの波動が伝わってくるような重量感があった。

特に二人が一対一で戦うラストシーンは特筆すべき迫力。BGMが一切なく、二人の剣戟の音と息遣いだけが聞こえる演出になっており、逆に二人の剣を通じた"会話"に聴衆を強く引き込んでいく。


これまでの飛天御剣流の再現性の高さは承知していたが、今作は佐藤健自身も述べているように”敵の攻撃を当たるか当たらないかギリギリのところでかわす”という演出が功を奏しており、緋村剣心の"達人具合"が一層際立っていた。

また、雪代縁が繰り出す倭刀術も原作をかなり忠実に再現した見せ方になっており、剣心の飛天御剣流との差別化がしっかりと図られていた。
アクション映画という意味では、古参のファンの目から見ても120点の出来だったと言える。

ストーリー性の評価

では、一方のストーリー面はどうだったのか。

冒頭にも書いたように、この点は非常に評価が難しいというのが率直な感想だ。この原因は、漫画では一つの流れになっている「人誅編」と「追憶編」を、映画では「The Final」と「The Beggining」という二つに切り分けたことにある。

これは大友啓史監督としても非常に難しい判断だったと思われる。

便宜上二つに分かれているとは言え、内容としては密接に関係しており「人誅編の中に追憶編が収められている」と言った方が正しい。追憶編を読んでいるからこそ人誅編が面白いし、人誅編を読んでいるからこそ追憶編の悲哀が深く染みる・・・そんな構成になっているのだ。

ところが今回はこれらを「The Final (=人誅編)」と「The Beggining (=追憶編)」という形で二つに分けて作られた。恐らく原作ファンであれば、人によっては受け入れられない構成だったかもしれない。

しかし、これは映画の上映時間の都合も考えると仕方ないし、興行収入的な成功を意図するなら仕方がないところがあると思う。また、そういった興行的な面を考慮せずとも、「人斬り抜刀斎が緋村剣心へと変わる”るろうに剣心という物語の発端”を描いて、最後を締めくくる」というコンセプトから考えればアプローチしては十分”アリ”だ。

ただ、それが成功したかどうかを図るのは現時点では難しいと言わざるを得ない。

私が今作を評価する上で重視したいのは、「The Final、The Begginingと切り分けるアプローチが正しかったかどうか」ではない。重要なのはあくまで「るろうに剣心というドラマで描くべきテーマを描けたかどうか」だ。それが描けていればこのアプローチも正しかったのだろう。

逆にそれが描けていなければ「やはり漫画の構成を踏襲すべきだった」という評価にならざるを得ない。

では、るろうに剣心において描くべきテーマとは何だったのか? 

るろうに剣心のテーマとは何だろうか?

るろうに剣心という漫画には非常に多くのテーマが込められているため、一つに絞ることは難しい。

だが、私の主観も込めつつ敢えて断言するなら

「人生の超克」と「魂の救済」

だと言えるだろう。

人生の超克とは、すなわち「辛く、苦しく、ときに悲しみに溢れた人生を生き抜くことの難しさ」を描くこと。

そして、人生を歩む中で誰しもが少なからず罪を背負うものだが、「その罪は愛する人や仲間の支えによって必ずや許される日が来る」という希望の道を描くこと。これが魂の救済である。

いささか大仰ではあるが、これこそが「人斬り」という普通の少年漫画ではありえない暗い過去を持つ主人公ならではのテーマだと思う。

緋村剣心の抱える闇。それとの向き合い方の変化

では、主人公の緋村剣心が抱える罪とは何か。

言うまでもなく、数え切れないほどの人を斬り殺したことだ。仮にそれが”人々が幸せに暮らせる新しい時代を作る”という理想の実現のためであったとしても。いや、むしろ「未来の人々のために、今を生きる人々を殺した」という矛盾こそが緋村剣心の闇をより一層深くしていると言って良いだろう。

それゆえ緋村剣心は、物語の開始当初「自分はいつ殺されても仕方ない」という”自分の生への諦め”を抱いて生きていた。それが物語が進む中で、新しい仲間ができ、大切な人との思いを育み、少しずつ自分の生の意味を取り戻していく。

そして、前作「志々雄真実編」において、周りの人間たちとの繋がりの中で自分の居場所をしっかりと認識することで、自らの罪深き生を積極的に受け入れる覚悟ができた。物語当初にかかえていた「生を諦め、安易に死に場所を求める」ような後ろ向きな道を断ち切る決意ができたのだ。前作の映画ではこの点の描写が物足りなかったが、全体の尺を考えれば落とし所ではあっただろう。

るろうに剣心という物語における今作の位置づけ

このように前作までの物語において、緋村剣心はその自分の人生を積極的に生き抜く覚悟ができた。

しかしながら、前作までに剣心が取り戻した”生きる決意”は、どちらかと言えば「誰かのために生きる」という利他性を含んだものだった。平たくいえば「自分を信じてくれている人たちのためにも、自分は生き抜かなければならない」というものだ。そこでは「自分の罪を受け止めた上で、自分のために生きる」という積極的な生への覚悟の要素が弱かった。自分の罪をどれだけ責められようとも、生きて自分の責務を果たすという決意までには至っていなかったのだ。

そのように”根底が不安定な状態での決意”に支えられた剣心は、ついに自身が抱える最大の過去の罪「妻殺し」に向き合わなければならないことになる。それが今回の映画「The Final」だ。

その意味で今作はるろうに剣心という物語のテーマである、「人生の超克」と「魂の救済」を描く上で、最重要とも言える位置づけとなる。当然

剣心「今まで人を殺めたことを後悔しているでござる」

周りの人「うん。分かってる。剣心はもう十分償ったよ」

剣心「分かってくれてありがとう。これからもよろしくね。」

みたいな浅い展開では完全に落第だ。

「妻殺し」という最大の罪を徹底的にえぐり出し、精神のどん底に突き落とされた上で、それでも再び立ち上がるというストーリーがなくてはならないのだ。実際、原作の漫画においては、その部分を非常に長く丁寧に描いていた。逆に、丁寧すぎて一部の読者から離れられてしまい、少年ジャンプの中での掲載順位がみるみる落ちていったほどだ。

しかし、それがあったからこそ、精神的にどん底に落ちた緋村剣心が改めて自分の生の意義を問い直す過程が意味を持ったのだし、そこから這い上がり仲間に受け入れられたことで緋村剣心の魂はようやく救済されることができたのだ。

今作は剣心に「人生を超克」させることができたか?

ここまで述べたように、今作で剣心の妻殺しを罪を克明に描き出すことは、物語のテーマを描く上で避けては通れない重要なセクションだ。極端に言えば、観ている人間が嫌になるほどその罪を深く描かなければならない。

ところが、である。

今回の映画版「The Final」においては、その部分はかなりバッサリ切られてしまっている。より正確に言うならば「描かれてはいるのだが、それは次回作へと切り分けられているため、今作ではダイジェスト的形で紹介されるに留める」というアプローチになっているのだ。

先程も書いたように、これには様々な理由があったと思われる。正直なところ、上映時間を7時間、8時間と設定する訳にはいかない以上、「物理的にどうしようもない」という事情はあったと思う。

・・・が、この重要なセクションを簡略化してしまったため、ラストに至るまでの剣心の心情の変化「生の苦しみや悲しみを”乗り越える”」という部分のドラマ性が落ちてしまったと言わざるを得ない。

・自分の妻(雪代巴)を惨殺したという罪

・それでもなお自分の生を生きると覚悟した決意。

・剣心が自分の過去の罪にどのように決着をつけ、雪代縁と向き合ったのか。

・物語の最後で剣心は自分の人生で何を成し遂げようとしたのか。

そういった「緋村剣心という一人の人生の総決算と、未来への決意と覚悟」がいまいち曖昧なものになってしまった感はどうしても否めない。

原作の最終版ではこの過程がかなり丁寧に描かれていたため、映画で簡略化されてしまったのはとても残念だ。

The Begginingへの期待。物語のテーマを左右する”あの人物”は登場するのか?

ただ、それはあくまで「今作だけで評価すれば」だ。

逆に言えば、次作「The Beggining」に描かれ方次第では、この評価は大きく覆る可能性がある、ということだ。The Begginingが単なる”緋村剣心の過去の物語”に留まることなく、剣心の巴への思いと、過去への贖罪、そして未来への決意といった要素が描かれるならば、今作The Finalの構成はとても意味があった物になると思う。

特に私が注目しているのは、原作に登場する”ある人物”だ。この人物が登場するかどうかで「魂の救済」の描かれ方がかなり変わると私は思っている。

その人物とは雪代巴と雪代縁の父親である。

彼は原作において、人誅編、追憶編の両方において存在だけは匂わせるものの、終盤までまったく出ないという、ある意味物語の”外側”にいる人物だ。自ら名前も出自を語ることはなく、緋村剣心も雪代縁もこの人物が「巴の父親」だとは一切認識されずに終わる(縁は幼い頃に生き別れており顔も覚えておらず、父親の方も縁だとは分からないという設定)。

だが、名前や経歴を語らずとも、この人物は精神のどん底に落ちた剣心に寄り添い、剣心が再び立ち上がるサポートをする。また、雪代縁に対しても、剣心に敗北して雪代巴の真意を知り、どん底に落ちた彼に寄り添う。そして、その魂を癒やすという絶妙な役どころを担う。

恐らく今作「The Final」の流れを観る限り、剣心の魂の救済ために彼が登場することはないと思われる (すでに神谷薫によって救われているため)。しかし、雪代縁の魂の救済という意味では、まだ出演の芽があると期待している。

雪代縁は、今作では「自分の勝手な思い込みで剣心へ恨みを抱き、一方的な復讐を果たそうとした男。最終的には真実を知ったことで、自分の行いを後悔した」という”ただのイタイ奴”の設定になってしまっている。これも間違いではないのだが、やはり自分の行いを悔い、新たな一歩を踏み出すという物語を用意してあげることで救済してあげなければ、この雪代縁の未来は救いようがないと思う。

雪代縁がイタイ奴なのは間違いないが、彼が自分の姉を愛していたことも間違いない。そうであれば、自分の罪を悔いた後につながる「魂の救済」の道を示してあげなければ、るろうに剣心のテーマを描ききることもできないのではないだろうか。

撮影は既に終わっているため、今更”期待”しても結論は変えられない。だが、次作公開を待つファンとしては、彼の登場を切に願う。

それでも「The Beggining」に期待する

さて、ここまでかなり「苦言」に近い記事を書いてしまった。今作を楽しんだ方の中には不快な思いをさせたかもしれない。だとしたら大変申し訳ない。

いまさら言っても信じてもらえないかもしれないが、これでも私は次の作品「The Beggining」にかなり期待している。The FinalとThe Beggining。この二つを合わせて観ることで「最初はどうかと思ったけど、大友啓史監督の力量に感服した!素晴らしい!!」とぜひ言わせて欲しいと、心の底から願っている。 

という訳で、結果的にますます「The Beggining」への期待が高まってしまった今作「The Final」。

るろうに剣心ファンのみならず、ぜひ多くの人に観ていただきたい!

 

るろうに剣心に興味がある人なら、映画鑑賞前に「るろうに剣心への熱い思い」を語った投稿もぜひ見てください!(笑)

 

 

wwws.warnerbros.co.jp

映画「るろうに剣心」に寄せて。”るろ剣”の真のテーマと長年愛される理由。

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いよいよ、ついに、この時がやってきました・・・

 

るろうに剣心最終章「The Final」が4月23日に公開されました!!!

 

私にとって「るろうに剣心」は、”人生を変えた”と言っても過言ではない作品。

私の人生は「るろ剣」なしには語ることができません (「たかが漫画で大げさな」とか言わないでくださいね・・・)。

何といっても私は、るろうに剣心の作者である和月伸宏のデビュー作からのファン。

さらに言えば、和月氏がデビュー前にアシスタントを務めていた小畑健の作品『魔神冒険譚ランプ・ランプ』の頃から、和月氏に注目していましたから!

さらにさらに、るろうに剣心の前哨戦ともいえる作品 「戦国の三日月」をリアルタイムで読んでいた男ですから!

筋金入りです!

 

今回の投稿では、そんな私の超個人的な「漫画版 るろうに剣心」への思いに加え、

・漫画「るろうに剣心」の概要

・映画「るろうに剣心」の概要

・「るろうに剣心」がなぜ時代に残る名作になったのか

・”売れる作品”と”名作”の違い

について考察。

その上で、今だからこそ言いたい私の自説

「漫画るろうに剣心は”本当は和月氏はこう終わるだったはず!”」という連載当時から確信していた”真のるろうに剣心エンディング”

も披露しようと思います (「妄想」とも言う(笑))。

 

こうあるべきだった

・「映画版 るろうに剣心」への期待

について書いてみます。

これを読めば、あなたも「るろうに剣心」を観たくなるはず!多分!

漫画「るろうに剣心」の概要

るろ剣”という愛称で親しまれる「るろうに剣心明治剣客浪漫譚ー」。

1994年から1999年にかけて週刊少年ジャンプに連載された漫画で、明治十年という少年誌にしては一風変わった時代を舞台にした作品です。

主人公の名は「緋村剣心 (ひむら けんしん)」。

見た目は身長が低く、優男風。爽やかな笑顔でとても人当たりの良い人物。

しかし、実は彼は江戸末期の京都にて政府要人を暗殺する人斬りとして、恐れられた最強の剣客だった。あまりに多くの人を斬ったため、ついたあだ名は”人斬り抜刀斎”。

そんな男が明治になってからは、人を斬ることを一切封じ、世間で苦しむ市井の人々を陰ながら助ける流浪の旅を行っていた。

 その緋村剣心はひょんなことから、神谷薫という女性と出会い、彼女が道場主を務める剣術道場に居候することになる。

その緋村剣心の前に、”人斬り抜刀斎”としての力をもってしか太刀打ちできない強大な敵が次々と現れる。

はたして剣心は、その強大な敵をしりぞけつつ、神谷薫や仲間たちとのつつましい生活をも守り続けることができるのかー。そんなストーリーです。

映画「るろうに剣心」の概要

この漫画るろうに剣心を原作として、大友啓史(おおとも けいし)監督の下、実写映画化されたのが「実写版るろうに剣心」です。

主人公の緋村剣心には、その身体能力の高さと"優男"風というイメージにピッタリな佐藤健がキャスティングされ、ファンの間でもかなり期待値が高まりました。

現在までに

2012年「るろうに剣心

2014年「るろうに剣心 京都大火編」「るろうに剣心 伝説の最後編」

が公開された。

そして今年原作の最終章である「人誅編」を描いた「最終章 (前編) The Final」が公開。その後6月4日に「最終章 (後編) The Beggining」が公開予定です。

映画版「るろうに剣心」。前作までの感想

実際のところ、るろうに剣心の映画化と聞いたときは微妙でした(笑)。「どうせ原作レイプだろ」という感じです。るろうに剣心の世界観を実写で表現できるわけがないと確信していましたので。

ただ、その一作目の映画は予想に反して、かなり見応えがありました。とくにアクションに関してはかなりの高レベル。

ストーリーは原作ファンとしては違和感がかなりありましたが、恐らく製作陣も「二作目がやれる」とは思っていなかったのではないでしょうか。かなり"詰め込んだ感"があったのは事実です。

それでも「ちゃんと描ける時間があれば、もっと面白かったのかもしれない。それだけに残念。」と思わせるクオリティではあったと思います。

 

果たして、続編の京都大火編と伝説の最後編は、ストーリー的にもかなり練られており、「アクションだけじゃないんだ」とファンを唸らせる展開でした。まぁ、それでも詰め込み感はあり、「あと3時間あればなぁ…」とは思いましたが(笑)。

 

そして、ついに今年最終章となる、剣心の十字傷の秘密を知る男「雪代縁(ゆきしろ えにし)」との戦いを描く「The Final」、剣心が人斬り抜刀斎として生きた幕末を描いた「The Beggining」の二部作が公開となります。

少年漫画の主人公しては異例な"闇"を心に抱える剣心が、自分が犯した罪とどのように向かい合うのか?

宿敵との戦いの果てに、自分の過去を乗り越える答えを見つけることができるのか?

この難しいテーマが果たしてどのように描かれるのか注目です。

るろうに剣心はなぜ面白かったのか?

正直に言って、るろうに剣心という漫画は爆発的ヒット作と言えるほどの作品ではないと思います。

週刊少年ジャンプで連載されていた頃、同誌では

ドラゴンボール

スラムダンク

ジョジョの奇妙な冒険

幽遊白書

など、まさに爆発的ヒットと言える名作がひしめき合っていました。

それらの作品と比べると、るろうに剣心はいささか"小物感"があるのは否めません。アニメ化もされたし、ゲームにもなった。小説にもなりました。

ですが、社会現象といえるほどの影響力があったかといえば、残念ながら力不足だったと言わざるを得ないでしょう。

 

では、原作終了から20年あまりが経過しても、なぜるろうに剣心は多くのファンから愛され続けるのでしょうか?

さまざまな理由があると思いますが、やはり私は主人公である緋村剣心に与えられた"主人公らしからぬ設定"にあるのではないかと思います。

王道と真逆の主人公

るろうに剣心の主人公・緋村剣心は、幕末に維新志士側の暗殺者として活躍し、“人斬り抜刀斎”と恐れられた男。数多くの暗殺者がうごめく京都において「最強」の人斬りだった。

そもそもこの設定自体が当時の常識から考えて異常 (現在だとサイコパス系の主人公も散見されますが、当時としてはかなり異例)。王道としては「人斬りに親兄弟を殺された主人公」という設定のはず。

ところがこのるろうに剣心は「殺しまくった人間」が主役です。王道から外れまくっています。

それに加え、緋村剣心は”最初から"最強だという点も異例です。

少年漫画としては「弱い主人公が友情と努力で強くなる」のが王道ですが、第一話目から最強の剣客というのは、かなり変わった設定だったと言えるでしょう。

 

正直これでは少年漫画の主人公としては微妙です。

少年漫画の主人公にとって重要なのは「読者が共感を覚えるかどうか」です。その意味では「最初は弱い主人公が努力して強くなっていく」という物語は、読者が共感しやすい設定です (今大流行している鬼滅の刃も「家族を大事にする」というところが、今の時代に共感を得やすい設定だと言われています)。

では、緋村剣心は一体どういう点で読者の共感を得ることができたのか?

最強にして最弱。それが緋村剣心の魅力

王道とは真逆の設定でありながら、緋村剣心が主人公としての魅力を勝ち取ることができた理由。それは「剣術の腕は最強だが、心は最弱」という点にあります。

剣心は新しい時代を切り開くという崇高な理想を持っていたものの、数え切れない人たちを斬ったという重い過去を背負っている。自分には人並みの幸せを得る権利はないと思っているからこそ、明治維新後も誰とも深い付き合いはせず、10年もの間孤独な放浪旅を送っていた。

心が最弱というと語弊があるかもしれませんが、どこか自分の命を軽く見ているし、思い過去を乗り越えて幸せに生きようと言えるほどの心の強さを持つことができないでいる。

そういう心の闇を抱えたところが、「誰も本当の自分の気持ちをわかってくれない」とどこか”精神的な放浪生活”を送っているような悩み多き10代の少年たちの心に響いたのではないでしょうか。

それまでの漫画の王道だった「あこがれ」「爽快感」「(肉体的に)強くなって困難を乗り越える」というのとは違った形で、読者の心を掴んだのが緋村剣心という主人公だったと思うのです。

精神の成長という新しい物語展開を実践したるろうに剣心

るろうに剣心以前の漫画では、ほとんどの場合が肉体的に強くなり、敵を打ち倒すことで物語が展開されていました。もちろん肉体と精神は強く結びついていますので、どちらか一方だけで成立するわけではありません。あくまでバランスの問題ではありますが、やはり肉体的な強さの方が”少年誌的なわかりやすさ”という面で有利ですので、どうしても肉体的な強さでストーリー展開が進むことが多かった。

その点るろうに剣心はより深く精神的な強さの方に踏み込んだ作品だったと言えます。

特に師匠から最強の奥義を会得する際に、それがドラマチックに描かれます。

剣の技術では剣心よりも強い師匠が繰り出す技に打ち勝つには、技術だけでは足りない。

生死を分けるコンマ数秒の戦いの中で、「自分は罪深い人間だからいつ死んでもいい」という後ろ向きな生き方を乗り越えること。そして自分のためではなく、「自分の愛する人や大切な仲間のために、俺は死ぬわけにはいかないんだ」という”生きようとする意思”を強く持つこと。

これこそが奥義会得のためにもっとも大切な要素だった。

それに気づいた剣心はようやく自分自身の命と正面から向かい合う心の強さを得ることができたのでした。

こういった、より精神面での成長をドラマとして描く作品はかなり少なかったように思いますし、この点こそ今でもなお読者の心を引きつけ続ける「るろうに剣心」の魅力なのではないでしょうか。

今回の映画はめちゃくちゃ暗い話になる??

さて、そんなこんなで(笑)、ようやくまっとうな幸せを手に入れようと歩みだした緋村剣心

そんな彼の前に、ついに自分の心のもっとも奥深くに刻み込まれた過去の苦い記憶と、自分の犯した最大の罪と向き合わなければならない敵が現れます。

それが今回の映画「The Final」と「The Beggining」の敵である、雪代縁です。

 

映画版がどのように描かれるのかまだ分かりませんが、少なくとも漫画版ではこの章はかなりシリアスで暗い話になっています。少年誌的にはNGじゃなんじゃないかというくらい暗い。

前章である「京都編」がかなり大人気だったお陰で何とか連載を続けられましたが、それがなかったら途中で打ち切りになっていてもおかしくないくらい暗いです。

その最大の原因は「ヒロインである神谷薫が死ぬ」というまさかの展開があるからです。

いや、たしかに精神性を強く打ち出した作品だとは分かっていましたが、まさか少年誌でヒロインが主人公の目の前で殺されるとかあります??

 

ただ、 実際にはこれは「神谷薫そっくりの人形」であり、神谷薫は死んでいなかったという展開だったので、一安心だったのですが。

それでも週刊連載中の半年くらいは「神谷薫は死んだ」ということで話が進んでいきましたので、相当インパクトがあったのは間違いありません。

この点が今回の映画でどのように描かれるのかも、かなり興味が惹かれるところです。

 

本当はこうだったはず?漫画版「るろうに剣心」のラスト 

さて、先程最終章の「ヒロインである神谷薫が死んだ・・・と思っていたら生きていた」という話題を述べました。

実は私この部分のストーリー展開こそ「るろうに剣心」最大の山場であり、ここにこそ最大の魅力があると思っていますので、ちょっと詳しく紹介したいと思います。

以下、激しくネタバレになりますので要注意でお願いします!!

 

前述の通り、この最終章において一旦神谷薫は殺されます。

殺すのは今回の映画版の敵役である雪代縁。雪代縁は雪代巴 (ゆきしろ ともえ)という女性の弟であり、この巴は幕末当時緋村剣心の妻でした。

そう。「妻だった」のであり、明治にはすでに故人となっています。

そして、この巴を殺したのが、他でもない夫である緋村剣心だったのです。これは悲劇的な不慮の事故であり、剣心は何も悪くないのですが、その惨殺の現場だけを見た縁は「剣心が姉を殺した」として復讐を企みます。

その復讐の手段として「緋村剣心がいま愛している女、神谷薫を剣心の目の前で殺す」という方法をとるのです。

・・・が、諸事情のための縁には神谷薫をことはできず、その代わりに精巧に作られた神谷薫の人形を死体に見立て、剣心に「お前のせいで、この女は死んだんだ」と思い込ませることにしたわけです。

結論を言ってしまえば、この計画は明るみになり、神谷薫は無事に剣心の下に戻り、物語はハッピーエンドを迎えます。

 

しかし。

私は、もし作者がこの「るろうに剣心」という作品の”作品性”を重視し、自分の伝えたいテーマを描くことを貫くのであれば、神谷薫は本当に殺すべきだった、と思っています。

作者が剣心の人生を通して伝えたかったのは、神谷薫を殺され、失意のどん底で自暴自棄になって仲間をも見捨てようとした剣心に、とある人物が諭した次の言葉だったはずです。

「大事なものを失って、身も心も疲れ果て、けれどそれでも決して捨てることができない想いがあるならば、誰が何と言おうとそれこそが君だけの唯一の真実だ。」

 

人生には死ぬほど辛いことがたくさんある。本当に死にたくなるようなときもあるし、何もかもがどうでも良くなるような時だってある。

でも、そういう時においてさえ、人には「決してこれだけ譲れない」という何かがあるはず。それがどんなに下らないことでも、甘っちょろい戯言でもいい。

自分が本当に正しいと思うなら、それに従って生きろ。誰の真実でもない。それこそが自分自身にとっての真実なのだから。

これが作者が伝えたかったメッセージだったと思います。

 

だとするなら、文字通り剣心には「すべてを失わせなければならなかったはず」です。

一応、剣心は神谷薫が実は生きていたということを知る前に、自力で立ち上がることに成功しますが、それでも物語の厚みという意味では神谷薫が生きていたことで説得力が薄くなった感は否めません。

最愛の人を守れず、目の前で惨殺されたとしても、それでも”目の前の人々の幸せを守る”という信念に従って最後まで生きていく・・・それがこの作品のテーマをもっとも強く打ち出せるエンディングだったと思います。

恐らくそれは作者は百も承知だったはず。

けれども、その手法は取らなかった。

なぜでしょうか?

私がるろうに剣心を愛する理由

神谷薫が死ななかった理由。

もちろん「少年誌的にそれは・・・」という大人の立場もあったと思います。

実際、神谷薫が死んだ(ということになった)後、るろうに剣心の少年ジャンプでの掲載順は見る見る後ろへ下がっていきました。ジャンプは人気投票で掲載順が決まるので、ヒロインが死ぬという衝撃的な展開がファン離れを引き起こしたのは間違いありません (それはコミックスで作者も言及している)。

ただ、そういった「少年誌的な配慮」という以上に、作者が”エンターテインメント”という物にこだわったからというのが最大の理由だったと思います。

作者である和月氏はコミックスの中で、物語展開の裏話とかキャラ設定が反省点とかを載せているのですが、その中で何度も「エンターテインメントはハッピーエンドであるべき」という持論を掲げています。

それはやはり「自分もそうやって漫画というエンターテインメントから夢や希望を受け取ってきた。自分もその一端にいる以上、読者に夢を届ける作品を書くべきだ」という自負があるのだと思います。

 

確かに神谷薫を殺した方が作品性はより高まるのは間違いない。

これは連載中にも思っていたし、今でもそう思っています。

しかし、問題はそれでは絶対ハッピーエンドにはならないということ。

どちらを取るべきかの激しい葛藤の結果、作品性よりもエンターテインメントであることを選び取ったのではないか・・・・私はそのように思っています。

実はこれこそが私がるろうに剣心を愛してやまない理由です。

るろうに剣心という作品自体もそうですが、この作品を通じて作者の苦悩が染み出しているー。それが私がるろうに剣心に惹きつけられる理由です。

ジョジョの奇妙な冒険のように、練りに練られたストーリー展開とキャラ設定で、息をつかせぬ展開で読者を引きつけるというのも、非常に面白いと思いますし、それこそが名作であるとも思います。

そういう意味では「るろうに剣心」は残念ながら名作とは言えないかもしれない。

ただ、物語の流れを丁寧におっていくことで、作者の苦悩や成長が見えてきます。

その作者成長の物語に自分自身の苦悩や楽しみを投影し、作者と一緒に成長しているような不思議な感覚を味わえる作品だと言えるのではないかと思うのです。

最終巻の作者コメントへの思い

繰り返しになりますが、このるろうに剣心が世間一般で言われる”名作”かどうかは分かりません。

ただ私にとってるろうに剣心はとても特別な作品なのは間違いありません。

この作品をきっかけにして、私はそれまで知らなかった新しい世界にたくさん触れることができました。

幕末という時代に興味を持ったことで、日本のみならず世界の歴史や経済、そして政治制度などの様々な問題について知見を広げることになりました。いささか大げさに言えば「自分が生きる理由」を考えるきっかけになったとさえ言えます。

 

先程も書いたように、この「るろうに剣心」のコミックには、作者によるこの作品へのさまざまなコメントが載せられています。

その最終巻の巻末に掲載してあるコメントが、この方の漫画家としての矜持がとてもよく現れています。文章としては拙いと思いますが、「るろうに剣心」という作品の締めとしてとても良い文章だと思いますので、転載させていただきます。 

 

「プロの漫画は作品であると同時に商品です。商品である以上、買った人がそれでどのように楽しもうとそれはその人の自由です。

通勤通学にヒマ潰しで読むも良し、読み飽きたら捨てるも良し、古本屋に売るも良し、本当に自由です。

けど、それでも和月はこの「るろうに剣心明治剣客浪漫譚ー」が皆さんの本棚の片隅に長く残ってくれる様、作者の勝手なエゴだとわかっていても、願って止みません。

和月の本棚の片隅に今もならんでいる、子供の頃に買った幾つかの漫画と同じ様にこの漫画がなれたら、これ以上嬉しいコトはありません。

1999年10月某日 和月伸宏

 

これから何百冊、何千冊と本を買い求め、その中にはいろいろな事情で手放さざるを得ない作品もあると思います。

しかし、この「るろうに剣心」だけは恐らく私が死ぬまで、私の書棚で生き続けることは間違いなさそうです。

 

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m


 

よい人生を送るために必要なたった一つの”輪”。ロルフ・ドベリ著「Think Clearly」。

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「よい人生を送るにはどうすれば良いのか?」

「どうすればより幸せになれるのか?」

大昔からあらゆる人間が抱いてきたであろうこの疑問。

これに真っ向から、そしてわかりやすく答える世界的ベストセラーを今回はご紹介。

それがこのロルフ・ドベリ著「Think Clearly」だ。

ビジネス書のベストセラーというだけで”胡散臭さ”を感じる人もいるかもしれないが、この本は違う。

文章はシンプル、論旨は明確。非常に読みやすい。

だが、先を見通しづらい複雑なこの世界を生き抜くために重要な、そしてクリアーな方針を指し示してくれる書籍だ。

 

著者紹介

著者であるロルフ・ドベリは作家であり、実業家。1966年、スイス生まれ。

スイス航空の子会社数社でCEO、CFOを歴任。

科学、芸術、経済における指導的立場にある人々のためのコミュニティー「WORLD.MINDS (ワールド・マインズ)」を創設し、理事を務める。

35歳から執筆活動をはじめ、世界の多数の国での雑誌や新聞に寄稿。著書は40以上の言語に翻訳出版され、累計発行部数は300万部を超えるベストセラー作家。

著書に

「Think Smart 間違った思い込みを避けて、賢く生き抜くための思考法」

「New Diet 情報があふれる世界でよりよく生きる方法」

などがある。

作家であり、実業家でもあるという風変わりな肩書を持つ著者だが、彼の著作の面白い点は人生という困難な道をよりよく生きるための処方箋を、とても簡潔な言葉でわかりやすく表現してくれるところだ。

しかも、そこには恩着せがましい押し付けや高圧的な態度は微塵もない。

微笑みながら対話してくれているかのような”優しさ”を感じる独特の文体が魅力だ。

※ロルフ・ドベリの「New Diet ー情報があふれる世界でよりよく生きる方法ー」については、別記事で取り上げました。これもかなり面白いのでよろしければ、こちらもどうぞ!

この本の最大のコンセプトとは

この本の目次を見てまず思うのは、その章立ての多さだ。なんと全部で52章にも及ぶ。

しかし、安心して欲しい。この数は内容の複雑さを示すものではない。

52章のそれぞれが人生をよりよくするための思考方法をひとつずつ紹介する形になっており、ひとつひとつの内容はとてもシンプル。一章あたり7〜8ページであり、寝る前にでもサラッと読めてしまうものだ。

とは言え、この52の方法をひとつずつ紹介していたら、軽く1万文字は超えてしまうだろう。

そこでここでは、この52の方法すべてに宿るひとつのコンセプトを紹介したい。

そのコンセプトとは

「よい人生を送るためには”判断の基準”を明確にせよ」

ということだ。

人が不安やストレスを感じる状況とは?

人が不安やストレスを感じるのは

「物事をどう判断したら良いか分からないとき」

あるいは

「自分以外の他者に判断が握られているとき」

だ。

逆に言えば、不安やストレスを感じない生き方をするためには

・物事を判断する時の基準を自分の中で明確にしておくこと

・判断の主導権を自分が握る環境を作ること

が大切になるということだ。

 

したがって、よりよい人生を送るためには自分の判断基準を明確にしておくことが重要となる (これには「私にはこれは判断できない。だから別の誰かに判断させる」という判断も含まれる)。

能力の輪を明確にする

では、そのような判断基準をどうすれば明確にできるのだろうか。

そのために重要なキーワードは「能力の輪」だ。

能力の輪とは「”この内側はできる。この外側はできない。”という自分の能力の限界ライン」のことだ。

 

これはウォーレン・バフェットという世界的に有名な投資家が使った言葉で、彼は人生のモットーとして

「自分の”能力の輪”を知り、その中にとどまること。輪の大きさはさほど大事じゃない。大事なのは、輪の境界がどこにあるかをしっかり見極めることだ。」

と述べている。

 

著者は次のように言う。

人間は、自分の「能力の輪」の内側にあるものはとてもよく理解できる。だが「輪の外側」にあるものは理解できない。あるいは理解できたとしてもほんの一部だ。

(中略)

「能力の輪」の境界がわかっていれば、仕事上で何かを承諾したり断ったりしなければならないときでも、そのつど判断しなくてもすむ。

(中略)

自分の「能力の輪」をけっして超えないようにすることが重要だと言える。

(本書P137)

「能力の輪」から出てはならない

これは今年の大河ドラマ”晴天をつけ”の主人公である渋沢栄一が言う「蟹穴主義」に通ずるものがある。

わたしたちがよく知る蟹は、海や川に穴を掘ってその中に棲みつくが、その穴は自分の甲羅の大きさと同じ大きさなのだそうだ。決してそれ以上の大きな穴は掘らない。

渋沢栄一は「論語と算盤」の中で、自分はこの蟹穴主義に基づいて生きてきたという。つまり、自分の能力の輪以上の大きさの物事には関わらないようにしてきたということだ。

 

人はついつい自分の「能力の輪」を超えた物事に関わりたくなるときがある。自分の能力の輪を広げたいという誘惑だ。

だが、この「能力の輪」をむやみに広げようとする誘惑が、のちに自分に大きな不安やストレスを引き起こす。どれほど人の能力が高かろうとも、それはあくまで特定の分野の話。

人間の能力は、ひとつの領域から次の領域へと「転用」がきくわけではない。このことを肝に命じておく必要がある。

 

ただ注意が必要なのは、若い時にはその領域を知ることは難しいということだ。

「これが自分の能力の輪だ」と思って行動しても、実際にはまったくうまくいかない時もあれば、逆に自分の予想をしないところで「能力の輪」を発見することもあるかもしれない。だからこそ若い時には、さまざまな分野の勉強をし、チャレンジをするべきだろう。

しかし、ある程度の年齢になれば自分の能力の輪を認識することができるようになる。「自分がやりたいこと」と「自分にできること」の違いが明確になる時期が訪れるはずである。

その時にようやく「能力の輪」をちゃんと守ることが肝要だということがわかるだろう。

まとめ

今回の投稿では、本書の中でも最重要と思われる「能力の輪」という点にしぼってレビューをお届けした。この「能力の輪」という概念を頭に入れて読み進めるだけでも、かなりわかりやすく読み解くことができるかと思う。

 

もちろん、本書ではこれ以外にも非常に面白く、かつ具体的な”よい人生を送るための秘訣”が数多く紹介されている。

たとえば

・分からないことは「分からない」と答えてよい。自分が考えるべきテーマを見定めよ。意見がないのは知能の低さの現れではなく、知性の現れである。

・信念をつらぬくこと。妥協できない自分の主義を選び出すことは重要だ。だが、それはときに他人を失望させたり、落胆させたりするかもしれない。その覚悟を持つべし。

・達成困難な目標を立てている人は人生に不満を感じるものだ。

・大事なのは、少しでも早くどこかにたどり着くことではない。自分がどこに向かっているかをきちんと把握しておくことだ。

などなど・・・。

シンプルながらも、非常に含蓄のある言葉が並んでいる。

 

私たちが生きる世界は不透明で、なおかつ不確実であり、まさに一寸先は闇である。

この複雑な世界を自分の直感だけに頼って生きることができる人はほとんどいない。しかし、たとえば本書のような先人の知恵を取り入れていくことで、私たちは時代の英知を自分の人生に取り入れながら生きることができる。

それは直感に任せた生き方よりも、はるかに”よりよい人生”を生きる可能性を高めることができるだろう。

 

 

というわけで今回ご紹介した本はこちら。

ロルフ・ドベリ著「Think Clearly」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m 

 

※ロルフ・ドベリの最新作「New Diet ー情報があふれる世界でよりよく生きる方法ー」については、別記事で取り上げました。これもかなり面白いのでよろしければ、こちらもどうぞ!

人は誰でも悪魔になる。藤井聡著「”凡庸”という悪魔」。

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全体主義

この言葉にどのようなイメージを持つだろうか?

全体主義最高!」「全体主義って恰好良いよね!」・・・こんなイメージを持つ人はほぼいないだろう。

逆にほとんどの人が「なんか恐い・・・」「野蛮」そんなイメージを持っているのではないだろうか。

実際歴史を振り返ると全体主義にはそのような悲劇が伴っている。たとえばユダヤ人の民族浄化を行おうとしたナチス・ドイツ。あるいは、旧ソ連スターリンによる粛清や、中国の文化大革命を思い起こす人もいるかもしれない。

 

誰もが何かしら悪いイメージを持っている全体主義。その一方で、誰もがこうも思っているはずだ。

「昔のことでしょ? 私たちには関係ないでしょ。」

と。

しかし、本当にそうだろうか?

実は今ほど全体主義に染まる危機が高まっている時代はないと言って良い。

後述するように、全体主義とは何か特別な思想を持つものではない。全体主義とは言わば

"とにかく全体の空気に従えば間違いない"

と、全体の流れに盲目的に従う現象を指す。

したがって、現在ような先を見通しづらい時代や、複雑性の時代にこそ全体主義は力を持ちやすくなる。なぜなら、自分で考え抜き、答えを出していくことが困難なため「皆んなの動きに合わせておけば、とりあえず大丈夫だろう」という安易な選択を行いやすいからだ。

これからますます混迷を極める社会の中で、”全体主義の誘惑”に駆られないためにも、今こそ全体主義への理解が必要になる。

 

全体主義への理解を深めると言えば、20世紀の哲学者ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」は避けることのできない名著だ。ただ、この本は難解でボリューム感もかなり大きい。

そこで今回はアーレントの著書を元に、全体主義の特徴や原因、そして全体主義が今の私たちの生活に与えている影響をわかりやすく解説した、こちらの本を紹介したい。

  

藤井聡 著「凡庸という悪魔」 だ。

<凡庸>という悪魔

<凡庸>という悪魔

 

 

全体主義の恐ろしさ「エルサレムアイヒマン

全体主義ナチス・ドイツ」というようなイメージが定着しているせいで、多くの人はとんでもない悪魔のような人間が人々を騙して、あのような非道なことをやってのけたと思っているのではないだろうか。

しかし、実はそうではない。

むしろ著者や(この本の底本となっている)ハンナ・アーレントは「凡庸な人間こそが悪魔になりうるのだ」と述べている。

 

ハンナ・アーレントは「エルサレムアイヒマン」という著書で一つ例を紹介している。

かつてナチスドイツがユダヤ人の虐殺を実行した時に、強制収容所でのユダヤ人の管理を取り仕切っていたアドルフ・アイヒマンという人物がいた。

ナチスが滅びた時に辛くも逃げ延びたが、その後逮捕され国際軍事法廷で裁かれた。

それだけ聞くと恐らく「よほど凶悪な人間だったのだろう」と思うだろう。しかし、傍聴者の記録によれば、彼はどこにでもいそうな、冴えない、凡庸な人物だった。ただ、組織に入ることを好むタイプであり、出世欲はかなり強かった。

その彼が裁判の際に、つぎのようなことを述べている。

「自分は義務を行った。命令に従っただけでなく、法にも従った。」

「私はユダヤ人であれ、非ユダヤ人であれ、一人も殺していない。」

「ただユダヤ人の絶滅に協力し幇助しただけだ。」

と。

そして、法律には例外があってはならないという”順法精神”に基づいて、彼はユダヤ人虐殺を遂行したのであり、何も”間違ったこと”はしていないと主張したのだ。

 

つまりアイヒマンは「法に従う」という法治国家として当然のことをしただけであって、自分が悪を行ったとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。

悪を悪だと思って行動しているのではない。自分は組織に命じられ、世間でもそれが正しいと信じられている。その”全体としての空気”に従って行動しただけなのだ。

ただ真面目で、組織にしたがって行動した結果、悪魔のような所業を平気で行う。なぜなら「それがみんなが (全体が) 望んだことだから」だ。

全体主義の恐ろしさとはここにある。

何か恐ろしい思想を持った悪魔のような人物が社会を悪い方向に導くのではない。全体の空気を読んで行動することに慣れてしまった人間、自分で考えることを放棄した人間が多数者になった時、その社会の構成員がすべて悪魔に変貌するのである。

 

凡庸な人こそ悪魔になる

では、なぜアイヒマンのような人間が生まれるのか。その原因について著者は次のように述べる。

「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」

と。

「凡庸」と言うと「平凡」と混同する人もいるだろう。たしかに字面はよく似ているが意味合いは違う。

たとえば「平凡な暮らし」と言えば、穏やかなで平穏な暮らしが思い浮かべられる。しかし、「凡庸な暮らし」と言えば陳腐で何も良いことのない暮らしといった意味合いになる。

著者がタイトルに込めた「凡庸」とは、自ら考えることを止めた”思考停止状態”の陳腐な人間性のことだ。

 

したがって、先程の「”思考停止”が”凡庸”な人々を生み出し、巨大な悪魔”全体主義”を生む。」という言葉の意味をより詳しく言うと、

「自分で考えることを放棄した凡庸な人々が、”これが正しい”という世論にしたがって行動した結果、巨大な悪行を平気で行うようになる。」

ということだ。

だが、これだけではなぜ凡庸な人間が全体主義を生むのか?というメカニズムはわかりにくいと思う。

この場で「全体主義の全容」を語ることは紙幅の都合でできないので、興味がある人はぜひ本書を手にとって欲しい。

ただ、それを理解する上でひとつ参考になる考え方が、アーレントのいう「全体主義とは運動である」ということだ。

全体主義とは台風である

全体主義とは運動である。」

一見わかりづらい表現だが、「台風」のようなものを考えるとわかりやすい。

台風とはそれ自体が何か目的を持って動いているわけではない。周りの気圧や地形の状況という物理的な条件に合わせて動いているだけだ。そしてその中心 (台風の目) には何も存在しない。ただ、極端に気圧が落ちた空間があり、その周りに雲が集まっているだけである。

実は全体主義もこれと同じ構造なのだ。

 

全体主義に関しても、ナチスドイツにおける「ヒトラー内閣」のような中心部を確認することができる。しかし、そこには何か特別な思想があるわけではない。ただ、権力欲という強力な欲望が渦巻いている。

この欲望は中枢の外部に存在する”大衆”が持つ、経済的不安、将来への不安、格差への怒りといった膨大なエネルギーを吸収し、より大きく、より強大に成長する。

そして、大衆の持つエネルギーを吸収するためには、中心部は活発な運動を展開しなければならない。何も活動していない組織には誰も興味を示さないからだ。

だが、一旦エネルギーの吸収を始めれば、その運動を止めることは難しくなる。台風が雲を取り込んだ分だけ大きくなるように、大衆エネルギーを吸収すれば、それを維持するためにより大きな組織が必要となる。

そして大きな組織はさらに大きなエネルギーを必要とするのだ。

 

権力を欲した中枢が悪いのか。

強力な中枢を欲した大衆が悪いのか。

どちらが先かは分からない。

しかし、ただひとつ言えるのは、台風は強くなればなるほど莫大なエネルギーを必要とし、また吸収される方も台風の強さを求めてエネルギーを提供するのだから、台風の活動が止まってしまったら組織も大衆もどちらもが崩壊してしまうということ。

つまり、全体主義は一度動きだしてしまえば止めることは不可能なのだ。仮に何かの間違いが見つかったとしても、それで動きを止めることはできない。運動をやめることは自己の崩壊に直結する。

 

これこそが全体主義の恐ろしさである。

一旦動き出したら最後。誰にも止めることはできないのだ。

全体主義の台頭を防ぐために

では、このような恐ろしい全体主義運動を防ぐためにはどうすれば良いのか。

その答えは「全体主義とは運動である」というアーレントの分析にヒントがある。

運動は一旦発生すれば止めることが難しい。だから一番大事なのは「運動を発生させない」ことである。

どうすれば運動の発生自体を止められるか?

 

アーレントが重要視したのが「複数性」である。

これはアーレントの言葉だが、「自分とは異なる、さまざまな立場や考え方を持つ他者との関係性を大切にすることで、初めて人は人間らしさを持つ。それは個々人を結びつける絆でもあり、それぞれの適切な距離を保つための知恵でもある」という意味だ。

このような複数性を排除し、一つの単純化された価値観以外の思考をやめること、これこそが陳腐な人間 (藤井氏の言う”凡庸な人間”)を生む。そして、陳腐な人間こそが容易に全体主義へと収斂されていくのである。

 

逆に言えば、私たち一人ひとりが他者の視点を意識しながら、物事をしっかり考え判断することを怠らなければ、全体主義という運動を未然に防ぐことができるということだ。

まとめ

冒頭にも書いたように現在ほど全体主義の危険が高まっている時代は少ないと思う。

なぜなら世界のあらゆる所で政治的な不安定性が増し、経済格差の拡大による社会不安がかつてないほど高まっているからだ。今回のコロナ禍でそれがさらに加速してしまった感が強い。

このような時代では、「他者の視点を考慮しながら、熟慮を重ね、慎重な判断をする」ということが困難になる。

そもそも異なる意見を聞き入れるというのは非常に難しい。インターネットでさまざまな意見を「見る」ことはできるが、実際に聞き入れ、それを自分の考えにも反映させるというのは並大抵の努力ではできない。

ほとんど人が「周りの意見を聞いている」つもりでも、実際には自分と同じような意見、あるいは深く考えなくてもわかったような気になれるわかりやすい意見に飛びつきやすくなってしまう。つまり全体主義に陥る下地は十分出来上がってしまっているのが現状だ。

 

ネットやスマホの普及で「効率」「時間」「スピード」がことさらに重視されるこの時代。

多くの人の立場や視点を考慮し、辛抱強く考え抜き、少しずつ歩んでいくという時代に逆行するアプローチをどれだけの人が可能なのか。

全体主義による悲劇を繰り返さないために、私たちに課された課題はあまりにも大きい。

 

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちら

藤井聡著「凡庸という悪魔」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

<凡庸>という悪魔

<凡庸>という悪魔

 

 

 

 

人生を長く生きる”良い生き方”。セネカ著「生の短さについて」

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人生は短い。

しかし、人が生きた時間的な長さが必ずしも人生の価値を決めるわけではない。もし「人生の長さ=人生の価値」ならば、平均寿命が80歳を超える現代人の人生は過去のどんな優れた人間の人生よりも価値があるものとなる。

人生の価値が時間の長さで決まるものではないことは誰もが分かっていることだ。たとえ短くとも、太く、充実した人生を送ることはできる。

では、どう生きれば価値のある人生が送れるのだろうか。

誰もが抱くこの問いに答えてくれる名著こそが、今回ご紹介するこちらの本

 セネカ著「生の短さについて」

だ。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

 

 人生は短いとはよく言われることだが、セネカによれば“我々が所有する時間が短いのではなく、実はその多くを浪費しているのだ”。

人生は十分に長く、それが有効に使われるのであれば、もっとも偉大なことをなすことが十分可能だ。しかし、それを浪費してしまえば、人生の最期にあたり「今まで消え去っているとは思わなかった人生が、もはや既に過ぎ去ってしまっている」ことに否応なしに気付かされる。気づいた時にはもう遅い。

“我々は授かっている人生が短いのではない。我々がそれを短くしている”のだ。

 

現代人は多忙だというが本当にそうだろうか?

“忙しい”、“時間がない”のは確かにその通りだろう。だがそれが本当に自分が望んだ時間の使い方なのだろうか。

「誰かに言われたから仕方なく。」

「立場上断れない。」

「周りの人たちについていくために必要だから。」

そんな理由で自分の時間を他人に吸い取られている人がいかに多いことか。

セネカはそのような多忙な人は惨めであるという。

“誰彼問わず、およそ多忙の人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者といえば、自分自身の幼児でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりも一番自由であるべき愛と憎しみとを命令されて行う者たちである。彼らが自分自身の人生のいかに短いかを知ろうと思うならば、自分だけの生活がいかに小さな部分でしかないかを考えさせるが良い。”

自分が多忙だと思っている人は、「自分の意思で、自分のために使っている時間がどれだけあるのか」について思いを馳せてみよう。

家庭を持っている社会人であれば、1日1時間確保できれば幸せな方ではないだろうか。

そう考えれば、自分に残されている時間があまりにも短いことを誰もが思い至るのではないか。

 

もちろん「人生が短いことが分かっているから、できるだけ多くのことを吸収できるように、自己研鑽に励んでいる」という人も多いだろう。

寸暇を惜しまず勉強したり、セミナーに通ったり、あるいはちょっとした空き時間にYoutubeで検索している人もいる。そのような人たちは自らを“時間を有意義に使っている者であり、浪費などしていない”と信じているに違いない。

だが、セネカによれば、それすらも時間の浪費に過ぎない。

 

セネカは言う。

「ところがその間に、諸君が誰かに、もしくは何かに与えている一日は、諸君の最期の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。では、お尋ねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画通りにことが運ぶのを一体誰が許してくれるのか。

(中略)

誓って言うが、諸君の人生は、たとえ千年以上続いたとしても、極めて短いものに縮められるであろう。」 

将来という不確定な時間のために、今まさに手元にある時間という財産を使う。それこそが浪費である。

 

たとえば昨今は子供の教育にプログラミングが必要だと言われている。

だが、はっきり言って今頃プログラミングを学んでももう遅い。

プログラミング教育が必要だった時期があるとすれば、いま20代か30代の人間だろう。今の子供が10年後、20年後の社会に出る頃には、AIがプログラミングを行う時代になっている。

たしかに超最先端のプログラミングに関わる人物はいるだろう。しかし、それは世界でもごくごく一部の超エリートだけであり、一般人にプログラミングが必要な時代はとっくに終わっているだろう。

そんな不確実な将来のために、かけがえのない幼少期の時間を無駄に費やそうとしているのがいまの日本という国だ。

 

 

では、いかにすれば人は実り豊かな人生を送ることができるのだろうか?

セネカの答えはシンプルだ。

「古典を読むこと」。

古典に触れ、古代の哲人たちと語り合うこと。

これだけだ。

セネカの意図を理解するためにはセネカが「時」をどのように考えていたのかを整理する必要がある。

 

セネカは時を次の3つに分けている。現在、過去、未来だ。

このうち現在は今まさに目の前を通り過ぎており、つかむことが決してできない。

未来は不確実であり、これもつかむことができない。

よって唯一われわれが確実につかむことができるのは過去のみだ。

この世のあらゆる時の中で過去のみが唯一確実なものなのである。

古典とはこの過去の結晶なのだ。

 

もちろん時代的に古いものがすべて「古典」というわけではない。

長い歴史の中で読みつがれ、評価され、今もなおその価値を失わないもの。

時代を超えて私たちの価値観に影響を与え続けるちからを備えたもの、それが古典だ。

時の流れとともに時代は変わりゆく。しかし、人間の本質や、人間が直面する問題は変わらない。古典とは、過去の天才たちがそれらの問題に徹底的に向き合い、戦ってきた記録なのだ。

実際、歴史に名を残すような人物は、ほぼ間違いなく古典に精通している。2021年の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公、渋沢栄一論語に精通し「人が生きるために必要なものはすべて論語に収められている」と言っている。

 

人生に悩む人達に向けた自己啓発セミナーは昔からあるが、昨今はネットの発達により、雨後の竹の子のように「自己啓発コンテンツ」が配信されている。

高いお金を払って有料コンテンツを観ても

「今日の講師は悪かった」

「期待していた内容と違った」

「これだったら○○さんの無料動画の方がマシ」

などと言った不満が募ることが非常に多い。

セネカの言葉を借りれば、そんなあやふやな物に費やす時間は無駄である。その時間があるのなら古典を読めば良い。古典の中に答えはあるのだ。

 

ページ数が40ページと文量自体は少ない。特に速読などを会得していない人でも、集中して読めば30分程度で読めてしまう。

だが、その内容は深い。

何度読んでも、その度に新しい発見がある。これぞ古典の魅力だろう。

セネカは短い人生を実りあるものにしたいのならば、古典を読み、古代の英知と語らうことを強く推奨しているが、まさにこの本こそがそのような”古典”のひとつだと言える。

 

 という訳で今回ご紹介したのはこちら。

セネカ著「生の短さについて」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

  • 作者:セネカ
  • 発売日: 2010/03/17
  • メディア: 文庫
 

 

J.S.ミル著「自由論」が示す”民主主義ゆえの弱さ”

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社会が大きな混乱に陥ると、それまで当たり前と思われていた考え方や価値観が根本から問い直されることがある。

昨今「民主主義」が危機に瀕していると言われるが、これもまさにコロナ禍という社会的混乱によって引き起こされていると言えるだろう。

では、なぜコロナ禍で民主主義が危機に陥るのか?

これを考える上で、歴史上とても参考になる古典がある。

それが今回取り上げるジョン・スチュアート・ミル「自由論」だ。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ミル
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

 

 

自由論の要点

経済学者であり、哲学者でもあったJ.S.ミルの主著であるこの「自由論」は、1859年に書かれた書だ。個人の自由とは何かを考える上で、歴史上外すことができない重要な古典だと言って良い。

その中心原理は「人間は他人に危害を及ぼさない限り、自分が望むどのような行動をしようとも自由であり、他人 (や政府から) 抑圧されるべきではない」というものだ。 

注意しなければならないのは、このミルの提唱する原理は「人に迷惑をかけなければ何をやっても良いでしょ」というような、自分勝手な自由を許容するものではないということだ。

ミルの求める自由とは「人間とは自由で平等な社会で育つことができれば、より良い社会を築くために努力をすることができる生き物である」という前提に立っている。

したがって、基本的に社会に資する行動をとるべきであるのは当然として、それが独りよがりで他者に迷惑をかけるような行いでなければ、人は自由に考え、行動すべきであるという意味である。

いわば、人は環境に恵まれさえすれば正しい行いをするという”人間への絶対の信頼”が基礎にあるということだ。

時代が要請した自由論

今となっては特に画期的でもないミルの原理だが、書かれた19世紀半ばには非常に大きな意味を持っていた。

それはアメリカという民主主義国家が大国として台頭してきた時代であったからだ。

自由や民主制という理念は17世紀頃から現れはじめ、フランス革命を経てヨーロッパ中に広がっていった。しかし、当時はまだ王権制が強く、市民による民主的な政治体制というのはどこか「そうあったら良いな」「そうあるべきだ」「そういう世界を目指そう」という理想論的な理念でしかなかった。

それが変わったのが、アメリカという民主主義国家の誕生だ。理想論でしかなかった民主政による国家が生まれ、しかも当時の世界列強と肩を並べるほどの国力を持つようになった。

理想論を振りかざしていれば良かった理論家たちは「実際に民主主義という国が誕生すれば、どのような問題が発生するか。それにどのように対処していけば良いのか。」という現実的な問題にいきなり直面することになったのだ。

天才トクヴィルが見抜いた民主主義の問題点

J.S.ミルの盟友にアレクシス・トクヴィルという政治思想家がいる。

彼は25歳の時に外交官としてアメリカに5ヶ月ほど外遊し、その体験を元に主著「アメリカのデモクラシー」を著した。この書は200年近くたった今も最も優れたアメリカ政治論として絶大な評価を受けている。

この中でトクヴィルは、アメリカという国家が将来直面するであろう問題を推察している。

それがすなわち「多数者の専制」だ。

そしてこれはアメリカだけでなく、これから民主化が進むすべてのヨーロッパ諸国が直面するであろう問題でもあった。

 

「多数派の専制」を簡単にいえば、民主主義においては多数派の意見が強くなるために、少数派の意見が封じられ、世論が多数派の一方的な意見によって牛耳られてしまうことを言う。

それまでは専制と言えば、王侯貴族や独裁者など一握りの権力者が多数者を弾圧することを指していた。民主主義国家においては主権者が市民となり、一人ひとりの市民が平等となるため、そのような「専制」は生まれないものだと考えられていた。

しかし、実際には平等な市民はその時の空気や専門家の影響を強く受けるために、一つの意見に流されやすくなる。そうするとその意見に異を唱えることは、個人という小さな力では困難になってしまう。

非常にざっくりだが、このようにして多数派の意見 (世論) がその国のすべての意見のようになり、少数派の意見が封殺される「多数派の専制」が生まれてしまうのだ。

「多数派の専制」を防ぐために必要なもの

ミルはトクヴィルの著書に非常な影響を受けており、文通仲間にもなった。当然ミルの「自由論」にも、このトクヴィルの影響は大きい。実際ミルはこの書の中でアメリカという国の誕生によって、自由についてなすべき議論が変わったと言っている。

ミルにとってはこの自由論は、トクヴィルが示した「多数派の専制」を防ぐために何をするべきかと問うた書物だと言っても過言ではない。

そして、ミルがそのために必要だと主張したのが、まさに「自由」だったのだ。

 

この「自由論」を読むと、ミルがどれほど”人間”を信じていたかが分かる。ミルの考え方の根本にあるのは「人間は適切な環境条件の下ならば必ず成長する」という人間への絶対的な信頼である。

すなわち”すべての人に自由と平等という環境を整えられれば、教養、道徳、そして高い感受性を持った豊かな人格を必ず育むことができるはず”。ミルはこのように考えていたようだ。

そして、この自由と平等という環境を整えるために、民主主義という政治制度が必要だとミルは考えていた。なぜなら、民主主義であれば特定の権力に抑圧されることはない。自由で闊達な議論を行うことができ、人は必ず進歩していくことができるからだ。

だからこそ多数派の専制はあってはならない。

民主主義とは、徹底した討論を行う制度と、少数派の意見にもちゃんと耳を傾ける人々の覚悟を持ってこそ機能する。それなくしては、民主主義はその機能を果たすことができないのだ。

「自由ゆえの弱さ」と「不自由ゆえの強さ」

さて、ミルが自由論を著してから200年近くが経つ現在、果たして民主主義によって人は自由になり、豊かな人生を享受しているだろうか?

残念ながら現実は真逆だ。

民主主義的な"自由な"競争に勝利した一部の富裕層や政治家によって、社会の富は独占され、貧困層が拡大。先進国の経済格差はかつてないほどに開いている。

その一方、非民主主義国家である中国がアメリカに対抗するほどの力を備え始め、国民も膨大な富を享受している。

皮肉なことに、自由によって人々の生活を豊かにするはずだった民主主義よりも、人々を抑圧する政治体制の方が世界手中に収めんとするほどの力を蓄えているのが現実だ。

一体なぜだろうか?

 

その理由こそが他でもない民主主義を成り立たせる基盤にある。

ミルが指摘したように、民主主義が正しく機能するためには次の二つの要素が必要となる。

一つは少数派の意見を吸い上げること。

もう一つが個々人が自由な意見述べることができることだ。

民主主義にはこれらが不可欠であると共に、これらが保証されているからこそ、人間は議論を重ね進歩することができる。

ところが、この自由な議論による合意形成は非常に多くの手続きや時間が必要となる。時には一度出た方針が覆り、一から議論をやり直さなければならない時すらあるだろう。

このような合意形成は、コロナ禍のような混乱の最中では大きなビハインドになりかねない。目まぐるしく変わる状況に応じた、迅速な対応が難しくなるからだ。 

逆に中国のような専制体制の方が機動的な対応が可能となる。

自由な意見も、少数派の意見も聞く必要がなく、トップダウンで対策を進められるからだ。もちろん前言撤回しても責任問われないため、大胆な対策を即座に実行に移すことができる。

つまり、民主主義はその自由さゆえに危機に脆く、専制主義はその不自由さゆえに危機に強いのだ。 

 

このコロナ禍は人知れず潜んでいたさまざまな問題を露わにした。この民主主義国家の混乱と中国の躍進という対照的な姿もそのひとつだと言えるだろう。

このまま民主主義国家が凋落し、中国の躍進が加速するのかは分からない。

しかし、この混乱に際し改めて民主主義について考えることで、この制度がさまざまな前提条件の元に何とか存立しているのだということが見えてくる。

そして、その前提条件は実はいつ崩れてもおかしくないほど脆いものだということが露呈した。

私たちが素朴に正しいと信じてきた民主主義だが、決して万能では政治制度ではない。むしろさまざまな問題点をはらんでいることを、改めて見つめ直す必要があるのではないだろうか。

ミルの自由論はそのために必要な、数多くの示唆を与えてくれる名著だと思う。

 

という訳で、今回ご紹介した本はこちらの本。

ジョン・スチュアート・ミル「自由論」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ミル
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 
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